ワインエキスパートに教わるワイン入門

フランスワインの基本「AOC」について学ぶ

フランスで AOC 制度がどのように導入されたのか、その経緯を教えてください。

現在は「テロワールと品質を守る制度」として知られる AOC(原産地統制呼称)ですが、その成立過程はしばしば語られるイメージとは異なり、政治闘争・経済不安・産地間対立・国家介入が重なり合った、きわめて社会的・歴史的な経緯をたどっています。

出発点は「ワインの品質保護」ではなく、産地名を巡る経済対立(1905 年)

19世紀末からフランスでは、偽造ワインや他地域産ワインの「地方名の乱用」が横行し、シャンパーニュやボルドーなど名のある産地では深刻な価格下落が発生しました。
その結果、1905年の「不正取引取締法」が成立しますが、これはワインに固有の「品質基準」を定めるものではなく、商取引における虚偽表示や名称の不正使用などを取り締まる一般的な反詐欺法でした。とくに地理的名称の不正使用に罰則を与えることで、後の原産地呼称制度の基盤となりました。

つまり、AOC の原点は ワイン文化ではなく経済危機への対応です。

「境界設定」をめぐる国家と産地の衝突(1908–1911年)

1908年から政府が産地境界を行政的に確定し始めると、最大の混乱がシャンパーニュで起こります。

1908年に政府が行政的に定めたシャンパーニュの産地境界は一部の栽培家に受け入れられず、さらに1911年に上院がその境界設定を廃止しようと動いたことで、マルヌ県の栽培家たちが反発し、暴動へと発展しました。

この事件は、原産地名称が文化的象徴ではなく、地域経済の生死に関わる社会問題であることを明確に示した出来事でした。

1919年法:原産地呼称は「文化財」ではなく「財産権」として確立

1919年法は、それまで行政が担っていた境界設定の権限を裁判所に移し、原産地呼称を「生産者が防衛できる集団的所有権」として扱う制度を導入しました。

この時点で 原産地呼称は “ブランド資産” であり、経済権益として保護されるものになっていました。

1927年法:品質概念の導入は「理論」止まり

1927年には、ブドウ品種や栽培方法などの「品質要素」が法律に盛り込まれますが、制度の運用は生産者側の申請に依存しており、統一制度としては十分に機能しないままでした。

これは「品質を守る制度」ではなく「品質を“法文化する試み”が始まった段階」といえます。

1935年:国家による統制制度として AOC が完成

1935年、ついに 現在の INAO の前身にあたる「国立原産地呼称委員会(Comité national des appellations d’origine, CNAO)」 が、7月30日の政令法(décret-loi du 30 juillet 1935)によって設立されました。この委員会は、名称の使用だけでなく、品種・収量・最低アルコール度数・栽培・醸造方法などを規定した「原産地呼称統制(AOC)」制度を整備する役割を担いました。
第二次世界大戦後、この CNAO が改組されて国立原産地呼称院(Institut national des appellations d’origine, INAO)となり、その後も AOC 制度の管理主体として機能しています。

国家が統制する制度が整備されたことで、生産量の上限が法的に管理されるようになり、(戦争による要因も重なったものの)AOC に認定されるワインの比率は、制度導入後もしばらくはフランス全体の生産量の一部にとどまりました。例えば1939年の時点でも、AOC に属するワインはフランスワイン全体のおよそ 5%程度に過ぎなかったとされています。

この時点で AOC は「伝統の保護」ではなく、国家によるワイン生産の再編成であり、経済危機管理の制度として成立しています。

1911年のシャンパーニュ暴動がなければ AOC は存在しなかったのでしょうか。

完全に「存在しなかった」と断定することはできませんが、1911年のシャンパーニュ暴動がなければ、AOC 制度は現在のような国家主導・統制型の形にはならなかったと考えられます。

暴動は単なる地方事件ではなく、フランスの原産地呼称制度を司法制度に転換させた政治的契機となりました。

暴動が制度に与えた影響 ― 「行政から司法へ」

暴動をきっかけに、フランス政府は行政による境界設定の限界を痛感し、境界設定は私有財産をめぐる紛争に近く、本来は行政ではなく裁判所の権限に属するべきだという認識が生まれました。その結果、行政的境界設定に代わって「司法的境界設定」制度が導入され、1919年5月6日法の制定へとつながりました。

つまり、1911年の社会的混乱が、原産地呼称を行政判断ではなく法律・裁判の対象にすべきだという考えを生んだのです。
1919年法は、原産地呼称を「生産者の集団的財産権」として認める初めての制度となりました。

1911年の暴動がなければ何が違ったか

もしこの暴動がなければ、

つまり、AOC の成立を単なる「品質管理の進化」とみなすのではなく、地域経済の混乱と国家の制度的介入の結果と捉える必要があります。

社会史的に見た意義

1911年のシャンパーニュ暴動は、すでに確定していたシャンパーニュの産地境界が政治的判断によって無効化されようとしたことに対し、地元の栽培者が名称の希薄化や産地拡大に反発して起こったものであり、原産地呼称の保護を求める集団的行動として位置づけられます。

その反発が、のちに「国家による明確な法的保護」という逆説的な形で実を結びます。

したがって、AOC は「テロワールを守る伝統制度」ではなく、社会不安を抑制するための国家的調停装置として誕生したのです。

1935年に AOC 制度が成立し、各ワイン産地に仕様書(cahier des charges)が定められましたが、当時 AO(Appellation d’Origine)のままで AOC に移行しなかった産地が存在したのはなぜですか。

1935年の政令によって AOC(Appellation d’Origine Contrôlée)が創設されましたが、既存のすべての原産地呼称(AO)が自動的に AOC に移行したわけではありません。

AOC は 登録制・審査制の制度であり、名称を持っているだけでは認められない仕組みになっていたため、AO のまま残った産地が生まれました。

その主な理由は次の3点です。

① AOC は「申請 → 審査 → 承認」の制度であり、自動格上げではなかったため

1935 年政令は 「呼称を保有している=AOC になる」ではなく、「AOC として申請し、基準を満たす産地のみ承認する」という方式を採用していました。
したがって、申請しなかった産地、もしくは審査で不適格と判断された産地は AO のまま残りました。

② AOC 認定には「生産統制」への同意が必要だったため

AOC 制度は 品質保証と引き換えに、国家による生産条件の統制を受け入れる制度でした。
収量、品種、栽培法、醸造法、最低アルコール度数などの制限が課され、自由な生産を望む産地では申請を避ける傾向がありました。

例:
  • 収量上限が導入されると 大量生産型地域には不利
  • 使用可能品種が限定されると 混植・地元品種主体の産地が困る
  • 樽熟成期間・最低度数なども地元慣行と衝突する場合あり
AOC を望まなかった産地の特徴
  • 低価格帯・大量生産型
  • ネゴシアン依存型
  • 多様な品種を栽培していた
  • 市場では「名称」より「価格競争力」を武器にしていた

③ AOC 認定には「歴史的・地理的根拠の証明」が必要だったため

AOC 承認には以下の点を 書面または慣行の証拠で提出する義務がありました:

一部の AO(とくに地方小規模呼称・名称使用に揺らぎがある地域)は、証明書類の不足や慣行の不統一により承認を得られませんでした。

AO のままでも産地名(地理的名称)は保護されているのではありませんか。そうであれば AOC にならなくてもよいのでは?

はい、AO(Appellation d’Origine)という枠組みでも、産地名そのものは保護されます。
ただし、AO と AOC では「保護の範囲」と「制度の役割」が異なるため、“名称を守る”だけでは不十分だと判断した産地が AOC を目指したという構図になります。

AO と AOC の根本的な違い

項目 AO(原産地呼称) AOC(統制原産地呼称)
保護対象 地名の使用権(名称の不正使用を防ぐ) 地名+生産方法+品質基準の一体的保護
国家介入 弱い(地名保護中心) 強い(仕様書による統制)
生産条件 原則として法的に拘束されない 技術・品質基準が法的に固定される
消費者への意味 「地名として正しい」 「地名かつ一定の品質基準に適合したもの」
経済価値 保護はあるが品質の保証はない 「法的品質保証=ブランド価値」を持つ

AO のままで十分と考えた産地も実際に存在した

「名称さえ守られればよい」「自由な栽培・生産を維持したい」という産地は、あえて AOC 申請をしない=AO のまま残るという選択をしました。

こうした産地の一部はのちに VDQS(Vins Délimités de Qualité Supérieure)として中間カテゴリーに移行します。

それでも多くの産地が AOC を目指したのはなぜか

理由は 2 つあります:

  1. AOC になることで「品質保証」を名乗れるから
    • AO は「場所の保証」しかできません。
    • AOC は 「品質保証付きのワイン」として法的に差別化され、市場価値・輸出価値が高まりました。
  2. AOC 制度が「国家が認めた上位カテゴリー」として序列化されたから
    1935 年時点ですでに「AOC > AO」という制度的格付けが明確化していました。
    つまり、AOC 化は 経済的ランクアップでもあったということです。

1945年に Vin d’Alsace は AO として認可されていますが、AOC 制度が導入された後に新設された AO は他にもありますか。また、AO Vin d’Alsace は AOC に近い位置づけだったとされますが、他の AO とは異なる扱いだったのでしょうか。

AOC 制度導入後にも AO が新設された例はあるか

1935年に AOC 制度が成立したあと、新しく AO として認可された例として確実に確認できるのは Vin d’Alsace(1945年認可)が代表的です。

少なくとも制度上「AO が次々と追加されていく」という運用が続いたわけではなく、現在のところ Vin d’Alsace 以外に明確な追加例は見当たりません。

ただし、例外的・過渡的な認可が存在する可能性までは完全には否定できず、将来的な資料確認で補足が必要になる余地はあります。

AO Vin d’Alsace が「特別扱い」とされる理由

Vin d’Alsace は、他の AO と比較して次の点が特徴的とされています:

観点 AO Vin d’Alsace の特徴
制度導入時期 AOC 創設後に「例外的に AO として認可」された
位置づけ 当初から AOC 相当の生産条件(品種・収量など)を備えていた
目的 戦後の法制度復帰措置として暫定的に AO 扱いとなった
その後 1962年に正式に AOC へ移行(=制度上の“格上げ”が前提)

つまり 「AO の形式をとっていたが、実質は AOC に近い枠組みだった」という点で、通常の AO とは性格が異なります。

AOC の下位カテゴリーとして VDQS 制度が設けられていたとされますが、AO は VDQS になったのですか。

いいえ、AO(Appellation d’Origine)が自動的に VDQS へ移行したわけではありません。

VDQS(Vin Délimité de Qualité Supérieure)は、1949年の法律により AO の内部に新設された「品質審査つきカテゴリー」であり、AO 全体が VDQS に置き換えられたわけではありません。

VDQS(Vin délimité de qualité supérieure)は 1949 年に法律で創設された制度で、AOC には達していないものの、一定の品質基準を満たす産地だけが審査によって認定される仕組みでした。

つまり、AO のうち選別された産地だけが VDQS(AOVDQS)として認定されたという構造になります

AOC と AOP は本来まったく異なる概念ですが、「AOC が AOP に置き換えられた」という誤解が広まっているのは、なぜなのでしょう。

誤解の背景

2009年を契機として、地理的表示(Geographical Indications: GIs)付きワインについて、欧州連合(EU)では「PDO(Protected Designation of Origin)」または「PGI(Protected Geographical Indication)」のいずれかへの登録が事実上義務化されました。

これを定めたのが、ワイン市場の共通組織を規定する Council Regulation (EC) No 479/2008 の Title III(とくに Chapter III〜VI) と、その実施細則である Commission Regulation (EC) No 607/2009 であり、これらによってワイン分野の原産地呼称(PDO)・地理的表示(PGI)の定義・登録・保護・表示ルールが EU レベルで一元的に整備されました。

その結果、フランス国内で AOC として認められたワインは、EU の枠組みとして「AOP(Appellation d’Origine Protégée)」に登録されたため、「AOC が AOP に置き換わった」という簡略化された説明が広まったと考えられます。

なぜ「置き換えられた」と誤解されるのか

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