フランス国立アーカイブのポータル FranceArchives に掲載されている Dewey Markham Jr. の「Classement des vins de Bordeaux」では、次のように説明されています。francearchives.gouv.fr
そして結びとして、「こうして作られたのが、1855年にパリで展示されたリストであり、それが今日“1855年格付け”と呼ばれている」と書かれています。
この記述から、少なくとも次の点は史料ベースでかなり確実に言えます。
一方で、万博全体の公式出版物である
を、デジタル化された全文で確認した範囲では、
といった形での掲載は見当たりません。
また、万博全体を扱う概説(例:フランス語版 Wikipedia「Exposition universelle de 1855」)も、農業セクションの一部としてワインには触れますが、格付け表そのものの内容には踏み込んでいません。
この状況から、現時点では次のように整理するのが妥当だと思われます。
つまり、
とみなすほうが史料と整合的です。
FranceArchives の Markham の文章には、「1855年にパリで展示されたリスト」と明記されていますが、具体的にどの建物・どの区画(例:パレ・ド・リンドゥストリー内のどのセクション)でどのようなパネルや帳簿形式で来場者にどの程度目立つかたちで掲示されていたのかまでは、ここからは分かりません。
現時点の公開資料ベースでは、「ジロンドのワインを展示する際に、“その品質序列を説明するための補助的なリスト”として会場で用いられた」という程度までが、比較的安全に言える上限だと思います。
以上をまとめると、格付け表は“作成されただけで放置された”わけではなく、パリ万博の会場で、ジロンドのワイン展示を説明するために実際に使われた。
ただし、その役割は万国博覧会の「公式プログラム」の主役というより、ジロンド側が出品を整理・説明するための補助的ツールだったと考えるのが妥当です
万博終了後、このリストはボルドー商工会議所やワイン商のあいだで取引上の目安として用いられるようになり、やがて専門書(例:Féret 社の『Bordeaux et ses vins』)にも取り込まれながら、その後のボルドーワインの取引や宣伝における重要な参照枠のひとつとして位置づけられていったと理解できます。
「皇帝が格付けを命じた」というのは、本来であれば、かなり大きな政治的・制度的イベントです。もし本当にそうであれば、通常は次のような形で足跡が残っているはずです。
ところが、現時点で公開されている範囲の資料では、こうした「皇帝の命令」を直接示す一次史料は見つかっていません。ここが、まさに注目すべきポイントです。
ここで重要なのは、「19世紀フランスは、万博や行政の文書が比較的よく残っている時代である」という事実です。
これらは現在でもかなりの量が閲覧可能であり、万博の開催決定、会場建設、産業部門別の展示内容といった事項については、相応に具体的な記録が残っています。
にもかかわらず、「皇帝の名でボルドー格付けを作成せよ」と命じた、と分かる文書が出てこない。それを引用する研究者も見当たらないという状況は、「これだけ重要な出来事なら、何らかの形で一次史料が残っていて当然ではないか」という素朴な疑問を、むしろ後押しします。
歴史学では、こうした状況を「沈黙(argument from silence)」として慎重に扱いますが、
という場合、その出来事自体が後世の伝説・誇張である可能性は高いという方向に重みがかかります(これはあくまで推論であり、「存在しないことの証明」とまでは言い切れないので仮説段階です)。
ここからは動機の分析であり、仮説段階の話になりますが、「なぜ触れないのか」を「一次史料の不在」という観点に絞って整理すると、次のようになります。
ここまで見てきたように、
のどちらから見ても、格付け作業を具体的に指示したのはボルドー商工会議所であって、ナポレオン3世の「命令」や「依頼」を示す文書は確認できない、というのが現在の到達点です。
では、にもかかわらず「ナポレオン3世が格付けを命じた(あるいは要請した)」という言い回しは、いつ頃から登場したのでしょうか。
1855年万博の公式文書や、ボルドー商工会議所・仲買人組合の書簡類、その後の報告書・年鑑類を見ても、「皇帝が格付けを命じた」と明言する記述は確認できません(ここは「見つからない」という消極的証拠なので仮説段階です)。
こうした一次資料の読み解きから、Markham らの研究は「万博という枠組み(=皇帝のプロジェクト)の中で、ボルドー商工会議所と仲買人が独自に格付けリストを作った」という構図を提示しており、そこに「皇帝の具体的命令」を挿しこむ余地はほとんどありません。
この時期の資料から逆算すると、19世紀〜20世紀前半には、少なくとも「ナポレオン3世が格付けを命じた」という説明が公式・主流の叙述だったとは言いがたいというところまでは言えます(「そう書いた人が一人もいない」とまでは断定できないので、ここは仮説扱い)。
はっきり「いつ・誰が言い始めたか」を一点に特定できるわけではありませんが、20世紀後半になると、この説が英語の一般向けワイン文献のなかで目立つようになることは確認できます。
権威あるワイン辞典『Oxford Companion to Wine』の Bordeaux の項目では、“In response to a request from Napoleon III’s 1855 Exposition Universelle … the 1855 classification has endured remarkably …” といった書き方がされており、これをもとに “Napoleon III requested a classification system…” と要約する論文・解説も現れます。
スチュアート・ウォルトンの The New Illustrated Guide to Wine など、20世紀後半の一般向けワイン本には “drawn up at the behest of Napoleon III”(ナポレオン3世の要請により作成された)という表現が登場します。これらは、2016年の Dave March の記事の中で名指しで引用されています。
Dave March は wine.co.za の記事で、「Wine-Searcher」「Walton のワインガイド」「Wikipedia」などが横並びで「1855年のボルドー格付けはナポレオン3世の要請で作られた」と書いていることを指摘し、「Wrong.(間違い)」と明言した上で、Markham の研究を根拠として挙げています。
この状況から逆に言うと、
という大まかな流れが見えてきます。
21世紀に入ると、この「皇帝命令」フレーズはウェブとマーケティングによって一気に拡散・固定化していきます。
英語版・日本語版を含む 1855年格付けの解説ページやブログの多くが、“Emperor Napoleon III requested a classification system for France’s best Bordeaux wines …” とする Wikipedia の文言をほぼそのまま踏襲しています。
2000年代以降の入門サイト・ワインショップの解説でも “created at the behest of Napoleon III” “Napoleon III requested a classification system for the 1855 Exposition” といった表現が頻出します
こうして、「ナポレオン3世が格付けを命じた(要請した)」という一文は、20世紀後半の一般向けワイン文献で流通し始め、21世紀のウェブ時代に「当たり前の定説」として固定された、と見るのが現状もっとも無理のない整理です。
Dewey Markham Jr. がボルドーの商業史の中に1855年格付けを位置づけている箇所を見ると、格付けはそれ以前から存在していた市場価格に基づくヒエラルキーの頂点に、1855年版が据えられた、という描き方になっています。
1855年の万博に際して、ボルドー商工会議所が地図とともに提示するために、仲買人組合に「五つのクラス別でできるだけ正確なリストを出してほしい」と公式に依頼し、1855年4月18日に現在の「1855年格付け」とされるリストが完成した、というのが Markham の叙述です。
さらに同じテキストで Markham は、1855年以後について次のようなことを述べています(要旨):
つまり、「万博が終わった瞬間から、格付けはボルドーのワイン商・仲買・所有者のあいだで、実務上の“共通言語”としてかなり広く共有されていた」という点については、一次史料に基づいた Markham の再構成から、かなり強い確度で言えます。
一方、「宣伝材料として」の利用、つまりラベル・広告・カタログ上の表現はどうかというと、ここは一次史料が断片的で、慎重な整理が必要です。
1855〜1860年代前半の具体的な広告・商業パンフレットのコーパスがまだ十分に体系的研究されていないこともあり、「この5年のあいだに、誰がどのようなコピーで格付けを使ったか」を、史料ベースで細かく描ける段階にはありません。
このため、プロの内部世界では万博直後から格付けが「価格と序列の基準」として日常的に参照されていた、という理解は妥当。
しかし 「積極的な宣伝材料」として「商工会議所やネゴシアンが、万博直後から一斉に大キャンペーンを張った」という意味で“積極的”と表現するのは、現状の一次史料の公開範囲では行き過ぎで、むしろ、19世紀後半〜20世紀の中で徐々に宣伝ツールとしての比重が増していったと見るほうが、慎重で現実的だと思われます。
まず前提として、1855年の格付け表は
といった項目を並べた一覧であり、「シャトーという法人格そのものの格付け」ではありません。
当時の写しを見ると、左側に「Lafite」「Margaux」などのクリュ名(=今日で言う銘柄)、別欄に「Propriétaire」として所有者名という構成になっており、所有者はあくまで「その銘柄の持ち主」として付随的に記録されているだけです。
この段階では、商習慣の主役は
であり、「シャトー=消費者向けブランド」という構図は、まだ現在ほど強くありませんでした。
19世紀に入ると、ボトル流通の拡大とともに紙ラベルが本格的に普及します。
ただし、この段階のラベルにおいて前面に出ているのは、
が中心で、シャトー名=自立した「生産者ブランド」という意識はまだ弱く、「どこの仲買人/商会の商品か」という情報が強く打ち出されていました。
「誰がどこで瓶詰したか」がブランド価値になり始める
20世紀初頭までボルドーでは、
という役割分担が広く行われていました。
このため、同じシャトーのワインでも、ネゴシアンによってラベルが違うという状況が普通であり、「ラベル=ネゴシアンの顔」「シャトー名=商品の一要素」という位置づけが続きます。
この構図に変化が出てくるのが、「どこで瓶詰したか」を書くラベル表示です。
といった表示が徐々に用いられ始め、「生産者が自ら瓶詰まで責任を持ったワイン」であることが品質シグナルになる、という感覚が強まっていきます。
この流れの中で、象徴的な事例として語られるのが1924年 Château Mouton Rothschild です。
バロン・フィリップ・ド・ロスシルドは、1924年ヴィンテージから全量をシャトーで瓶詰することを打ち出し(mise en bouteilles intégrale au château)、その記念としてポスター画家 Jean Carlu に、キュビスム風のラベルを依頼しました。
Carlu のラベルには「Ce vin a été mis en bouteille au château」と明記されており、
をひとつのメッセージとして組み合わせた点で、画期的な例とされています。
この段階で、「銘柄としての Mouton」から「生産者ブランドとしての Château Mouton Rothschild + 自社瓶詰」へと重心を移す動きが、ラベルによって明確に可視化された、と言えます。
第二次世界大戦後、とくに1960〜70年代にかけて、シャトー元詰と「シャトー前面型ラベル」は、ボルドーワインの表示様式として広く一般的なスタイルとして定着していきます。