ワインエキスパートに教わるワイン入門
ワイン産地としての「シャブリ」の基礎知識
ワイン産地としてのシャブリは、いつ頃から存在しているのですか。
史料で確認できる最初のシャブリのブドウ畑(9世紀)
現在の史料で確実にたどれる最初の記録は、867 年の西フランク王シャルル 2 世の勅書です。
この勅書では、王領財産のひとつである
- Capleiam という名の宗教施設と
- その宗教施設に付属する 家屋・土地・ブドウ畑
が、トゥールのサン・マルタン聖堂の聖職者団に寄進されたことが記されています。
この記述から、9世紀半ばの時点で、すでに現在のシャブリの場所に聖ルーに捧げられた宗教施設と、それに付属するブドウ畑が存在していたことがわかります。
したがって、「シャブリの土地でブドウ栽培が行われていた」という意味でのワイン産地シャブリの歴史は、少なくとも9世紀までさかのぼるといえます。
シトー会修道士による本格的な産地形成(12世紀)
その後、シャブリのブドウ畑は、シトー会の修道士たちによって本格的に拡大していきます。
- 1114年に、シャブリ近郊のスラン川流域にシトー会のポンティニー修道院(Abbaye de Pontigny)が創立されます。
- 12世紀前半の文書で、ポンティニー修道院がシャブリ周辺で36アルパン(古い面積単位)のブドウ畑を耕作する権利を得ていたとされます。その具体的な位置関係を現在の区画に対応させる試みには諸説があります。
このことから、12世紀前半には、すでに現在のグラン・クリュ斜面を含む一帯が、修道院の所有する専業ブドウ畑として組織的に開発されていたと考えられます。
この時期を、実質的な意味での「ワイン産地としてのシャブリの成立」とみなすことができます。
「Chablis」というワイン名が登場するのは13世紀
「Chablis」という名前が、特定の産地のワイン名として明確に現れるのは、13世紀初頭です。
13世紀前半に成立したとされる詩『La Bataille des vins(ワイン合戦)』では、フランス各地の白ワインが王のもとに集められ、その中で Chablis が名指しで登場します。
この詩から、13 世紀にはすでに「シャブリ」という名前の白ワインが、フランス王侯の食卓を飾る銘柄として認識されていたことがわかります。
中世末には「ワインで成り立つ町」として確立
その後の記録から、中世末にはシャブリが「ワインで成り立つ町」として確立していたことがうかがえます。
- 14〜15世紀には、シャブリを含むヨンヌ一帯のワインが、オーセール港からヨンヌ川〜セーヌ川を通じてパリへ大量に出荷されていました。
- 1405年には、シャブリ下町の城壁建設費を賄うために、89人のブドウ栽培者が8年間にわたり収穫の10%を拠出するという記録があり、当時すでに多数の栽培者と広いブドウ畑が存在していたことがわかります。
このような史料から、遅くとも14〜15世紀には、シャブリは町の主要な収入源がワインである「本格的なワイン産地」として確立していたと考えられます。
ローマ時代起源説について(補足)
BIVB や一部の紹介文では、ローマ時代にこの地域に「農業経営拠点(ローマ時代のヴィラ)」があり、ブドウが植えられていた可能性が語られることがありますが、現在のところ「Chablis」という地名とローマ期のブドウ栽培を直接結びつける文書や考古学的証拠は確認されていない、と整理されています。
そのため、ローマ時代にブドウ栽培があった可能性は否定できないものの、連続したワイン産地としての歴史が証明されているのは9世紀以降というのが、現時点での慎重な見方になります。
シャブリは遅霜の被害を受けやすい産地とされていますが、シャブリがワイン産地として形成された頃から、そのような被害があったのですか。
わざわざ条件の悪いところに、ぶどう畑を拓かなくてもいいように思います。
結論だけ先に
地理と気候の条件から見ると、シャブリは中世にワイン産地として成立した時点から、すでに「遅霜リスクの高い場所」だったと考えられます。
ただし、当時は現在よりも気候が冷涼で萌芽がやや遅かった可能性が高いこと、初期開発で選ばれた畑は、霜がたまりにくい良好な斜面に集中していたこと
から、「霜の当たり方」は現在とはかなり違っていたとみられます(ここは仮説段階です)。
にもかかわらずブドウ畑が拓かれたのは、(オーセール港などに集積されたのち)ヨンヌ川〜セーヌ川を通じてパリ市場へアクセスできたという流通上のメリットとキンメリジャン期の泥灰質(いわゆるキンメリジャンのマール)と冷涼な気候が生む、長熟向きの辛口白ワインという品質上のメリットが、霜リスクを上回ると判断されたからだと整理できます。
なぜ「シャブリは霜に弱い産地」なのか(構造の話)
- 地理・気候
- シャブリはブルゴーニュ北部、ヨンヌ県の内陸に位置し、ブルゴーニュの中でも特に冷涼な気候帯です。
- BIVB(ブルゴーニュワイン委員会)は、シャブリの気候を「修正された海洋性気候(modified oceanic)だが、春の霜がこの地域の特徴的な現象である」と説明しています。
ここで重要なのは:
- スラン川沿いの谷であること
- 冷たい空気が滞留しやすく、春の放射冷却時に霜が発生しやすい。
- ブドウ品種が事実上シャルドネ単一であること
- シャルドネは芽吹きが比較的早く、春の遅霜に弱い品種であることが栽培学の文献で繰り返し指摘されています。
BIVB の「ユニークな気候」のページでも、
- 「春の霜はこの地方の特徴的な現象である」
- 「長年、大きな被害を受けた年を経験しながら、生産者はこれに対処する方法を学んできた」
と明記されており、霜との継続的な格闘が、この地域の本質的なテロワールの一部と位置づけられています。
歴史的な霜害の記録
- 19〜20世紀:記録に残る「大霜害」
- BIVB の「ヴィンテージの特殊な年(Some legendary or unusual vintages)」などを見ると、シャブリおよびその周辺では、近代以降の「霜の年」として、
- 1880年・1888年:深刻な春霜
- 1920年代〜30年代:春霜が頻発した10年として総括
- 1945年:ジャン=ポール・ドロワンの証言として「5月1日の夜にすべてのブドウが凍った」と紹介
- 1957年:BIVB 歴史ページで 「霜によるヴィンテージの全損」 として言及される
→ 1957年の全損を契機に、1959年頃から畑で使うヒーターが導入された
- といった出来事が挙げられています。
- また、同じく BIVB「四つのアペラシオンと一つの品種」のページでは、
- 1955年時点で、フィロキセラと二度の世界大戦などを経て、シャブリのブドウ畑は約 550 ha まで縮小していた
- その後、霜対策技術や機械化の導入とともに、現在の約 5,800 ha まで拡大した
- ことが説明されています。
- このように、19〜20世紀には霜害が「歴史に刻まれる出来事」として何度も記録されていることは確かです。
- 中世〜近世:個々の年ごとの霜データはほぼない
- 一方で、中世〜近世のシャブリについては、個々のヴィンテージごとの霜害を数量的に追える連続データは、ほとんど存在しません。
修道院文書や地誌に「大寒波」「作柄不良」といった記述は出てきますが、シャブリ単独の霜被害を年ごとに復元できるほど詳細ではありません。
- したがって、「産地として始まった頃は霜害が少なかった/ほとんどなかった」とまでは、とても言えません。
- ただし、次の2点から「現在とは霜の“当たり方”が異なっていた可能性が高い」と推測はできます(ここからは仮説を含みます)。
産地成立期の霜リスクは「今よりマシ」だったのか?(仮説を含む整理)
- (1) 気候変動と萌芽時期の関係(一般論)
- 近年の気候研究では、ヨーロッパのブドウ栽培地全般について、
- 冬〜初春の気温上昇 → 萌芽の前進
- 一方で、春の遅霜そのものの「最後の霜日」はそれほど早まらない、あるいは地域によってはばらつきが増している
- 結果として、「芽吹きが早くなった分だけ、霜に当たりやすくなる」可能性が高い
- とする研究が複数あります。
- 要するに、温暖化で春が“早く”なっても、霜そのものがきれいになくなるわけではない。「早く芽が出たぶん、むしろ霜のリスクが増える場合がある。」という指摘です。
- この一般論をシャブリに当てはめると、仮説としてですが:
- 中世〜近世の寒冷な時代(いわゆる小氷期を含む)には、冬が長く、春の立ち上がりも遅く、シャルドネの萌芽も今より遅かった可能性が高い
- 同じような寒気の南下があっても、「まだブドウの芽が動き出していなかったため、結果的に被害が小さかった年」が多かった可能性がある
- 20世紀後半〜21世紀の温暖化のもとでは、萌芽が前進した結果、「昔ならまだ休眠中だった時期に、すでに開いた芽が霜に当たる」ケースが増えている
- というシナリオが成り立ちます。
- (2) 開発初期に選ばれた畑の位置
- シトー会などがブドウ畑を開墾した12〜13世紀には、
- スラン川に面した南〜南西向きの中腹斜面
- 水はけが良く、冷たい空気が谷底へ流れ落ちやすいポジション
- が、優先的にブドウ畑として選ばれたと考えられています。BIVB の歴史ページでも、修道士たちが斜面地にブドウ畑を広げたことに触れています。
- 一方で、今日「プティ・シャブリ」として多くの畑がある台地上や高位の緩斜面は、1944年に Petit Chablis AOC が創設されたころから少しずつ、本格的な機械化と霜対策技術の普及した1970年代以降に大きく増えた、という説明が一般的です。
- つまり、
- 産地成立初期には、「霜のたまりにくい良い斜面」が優先的に選ばれた
- 霜リスクが高い・土壌も薄い台地上の畑は、技術的・経済的に対応できるようになるまで、ブドウ畑としては後回しにされていた
- と見るのが自然です。
それでもなぜ、そんな場所に畑を拓いたのか?
「わざわざ条件の悪いところに畑を拓かなくてもいいのでは」という直感はもっともだと思いますが、当時の人たちには、霜リスクを補って余りあるメリットがありました。
- パリ市場へのアクセス
- シャブリのワインは、シャブリから陸路でオーセールの港へ運ばれ、そこでヨンヌ川の船に積み替えられ、さらにセーヌ川を経てパリへと送られていました。この「ヨンヌ川・セーヌ川による水運ルート」が、パリ市場との結びつきを強めたと多くの資料で強調されています。
- 近世のパリにとって、シャブリはブルゴーニュの中では比較的近く、川で大量輸送できる冷涼産地の白ワイン供給源でした。
- 大都市パリという巨大な市場が目の前にある、というのは、霜リスクを負ってでもブドウを植える強力な動機になります。
- 「他にはないスタイル」の辛口白ワイン
- シャブリの斜面は、キンメリジャン期の泥灰質(マール)と石灰岩からなる土壌で、冷涼な気候と相まって、高い酸やチョーキーなニュアンスを伴うミネラル感を持つ辛口シャルドネを生む、と多くの解説で評価されています。
- このスタイルが、パリの消費者やレストランの需要に合致し、「他にはない品質・価格で売れる」というリスクとリターンの関係を生んでいたと考えられます。
- 土地利用と社会的背景
- 谷底の肥沃な沖積土は、穀物など食糧作物にとって貴重な土地であり、食糧生産が優先されるのが一般的でした。
- 一方で、痩せた斜面は穀物には不利でもブドウには適していることが多く、シャブリを含むヨーロッパ各地で「谷底=穀物、斜面=ブドウ」という土地利用が広く見られました。
- さらに、シャブリの土地の多くを所有した修道院・教会勢力は、長期的な視野で畑を整備できる、他地域も含めて複数のワイン産地を持ち、霜害リスクを分散できるという構造があり、多少の霜リスクを受け入れやすい立場にありました。
歴史的に見ると、シャブリでは、ぶどう畑がジュラ紀キンメリッジアン期の地層の上にあることが重視されてきました。
ぶどうの根が張るのは表層の土壌であって、この地層そのものとは直接結びつかないようにも思われますが、なぜ「キンメリッジアン期の地層」がシャブリの生産区域の基準として用いられてきたのでしょうか。
現行の AOC 規定では「キンメリッジアン」は条件ではない
まず、「今の生産規定がどうなっているか」を確認します。
現行のカイエ・デ・シャルジュ(AOC Chablis の仕様書)では、生産区域はコミューン名+区画台帳(cadastre)の区画で定義されており、「キンメリッジアン期の地層の上にあること」という法的条件は明記されていません。
地質については、仕様書の「X. Lien avec la zone géographique(地域との結びつき)」の中で説明されています。ここでは、上位に「Calcaire du Barrois(ポートランディアン/チトニアン)」の硬い石灰岩、その下に「Marnes à Exogyra virgula(小さなカキ化石を多く含むマール)」があり、ブドウ畑は主としてこのマールが露出する斜面(talus marneux)に広がる、と記述されています。
同じ仕様書の歴史部分では、1920年代〜1930年代に「マルヌ・キンメリジェンヌ(marnes kimméridgiennes)」という地質的専門知識が、シャブリの範囲を描く際に用いられたことは触れられていますが、現在の生産区域はその歴史的経緯を踏まえた「既に確定している範囲」として扱われています。
したがって、「ブドウ畑がキンメリッジアン期の地層の上にあることが求められている」という言い方は、1930〜1970年代ごろの司法判断・政令の話としては正しいが、現在のカイエ・デ・シャルジュの条文をそのまま表した表現ではない、という整理になります。
歴史的には「地層=キンメリッジアン」が法的な基準として使われた時期がある
一方、歴史を振り返ると、キンメリッジアン(ないし「marnes kimméridgiennes」)をシャブリの基準とみなす考え方は、実際に法廷や政令の中で使われてきました。
地質学者 Éric Vincent らによる研究をまとめると、次のような流れです。
- 1904年の Rousseaux & Chappaz の研究
- シャブリ村の肥培管理に関する報告書の冒頭で、シャブリのブドウ畑の土壌・下層は本質的にキンメリッジアン由来であると述べ、「シャブリ=キンメリッジアン」という図式を提示。
- 1920〜1923年:裁判所による「キンメリッジアン地層」判決
- 1920年のオーセール民事裁判所判決で、シャブリの名を8コミューンに限定。
- 1923年のトネールおよびオーセールの判決では、「キンメリッジアン性の地層(terrains de nature kimméridgienne)に由来するワイン」にシャブリ名を限定するとされ、地質学者 Rousseaux を含む専門家に地図作成が委託されました。
- 1929年:20コミューンへの拡張と「キンメリッジアン」文言の消失
- 1929年の判決で、シャブリの範囲は20コミューンに拡大されますが、ここではキンメリッジアンへの言及は消えます。
- これは、地質よりも政治的・職能団体間の妥協が優先された結果と解釈されています。
- 1938年:AOC Chablis の政令(13 janvier 1938)
- AOC 制度創設後のこの政令では、20コミューンは基本的に維持しつつ、「キンメリッジアン」への言及が再び導入され、その結果としてキンメリッジアン地層がほとんどない周辺部の一部は除外されました。
- 1943年:戦時下での詳細な地図の承認
- INAO の委員会が、地質図と現地調査に基づき、約 3600 ha をキンメリッジアンを基準としてシャブリに分類。
- 1976年:新政令で「キンメリッジアン」の文言が削除/1978年:最終的な拡張
- 農業省の依頼で Gèze 報告(1973)が作成され、地質ではなく「農業的(栽培学的)条件」で線引きすべきという提案がなされます。
- 1976 年の新しい定義政令では、「キンメリッジアン」への言及は完全に削除されます。
- 1978年には、北部などへの大規模な拡張が決定され、ポートランディアン(チトニアン)地層の区画も含めて、約 5200 ha がシャブリに分類されました。
Vincent は次のように結論づけています。
- 1978年以降、キンメリッジアンは宣伝・物語のレベルでは残っているが、法的な線引きの基準ではなくなった。
- 「キンメリッジアン的な岩相(特徴)をもつポートランディアン層(Portlandien à faciès kimméridgien)」という折衷概念も、現在では時代遅れとみなされている。
このように、キンメリッジアンが生産区域の根拠に使われたのは、主に1920〜1970年代の司法・行政過程であり、現在の仕様書ではその役割は終えているという整理が妥当です。
「土壌」と「下層(地層)」の関係 ― 何が法令で、何が実際の畑か
ご指摘の通り、ブドウの根が張るのは表層〜比較的浅い土壌であり、仕様書で説明される「Marnes à Exogyra virgula」「Calcaire du Barrois」などは、むしろ地形・地質構造を説明する概念です。
しかし、シャブリ仕様書の「Lien avec la zone géographique」では、こう説明されています。
- 「コート・デ・バール」のクエスタ構造(上部が硬いカルカイユ=Calcaire du Barrois、その下にマール)があり、
- ブドウ畑は主に「マルヌ・ア・エクゾギラ・ウィルグラ」が露出する斜面(talus marneux)に広がり、場合によってはカルケール・デュ・バロワやカルケール・ア・アスタルトまで達する。
- 土壌は常に石灰質で、斜面のマール上では粘土分が多く、上部のカルケール上では薄く石だらけになる
とされています。
同じパリ盆地構造の下にあるサン=ブリなどでも、上に硬い「Calcaire du Barrois」の台地、中腹に「Marnes à Exogyra virgula」の斜面、その上に崩積土が乗る、という同様の構造と土壌区分が説明されています。
つまり、根が張る「土壌」は、崩積した礫・石灰岩片・粘土などの混合物ですが、その分布や性質は、下にある「マール vs 硬い石灰岩」「斜面か台地」かといった地質・地形構造に強く規定されるという関係にあります。
なぜ「地層」を基準にしたのか(ここは仮説段階)
史料に書かれている事実は、1920〜1930年代の裁判や、1938 年政令、1940〜1943 年の INAO の作業で、「キンメリッジアン(あるいはマルヌ・キンメリジェンヌ)」がシャブリの範囲を巡る争いの主要な論点となったという点までです。
一方で、なぜ「土壌」ではなく「地層」を前面に出したのかという問いに対して、史料がはっきりと「理由」を列挙しているわけではありません。
以下は、これらの史料と AOC 制度一般の経緯から考えられる仮説(解釈)です:
- 専門性と「客観性」を示せる基準としての地層(仮説)
- 1920〜30年代の裁判・INAO で、地質学者や農学者が関与し、地質図と地層区分が「科学的・中立的な基準」に見えたため、利害対立する生産者・ネゴシアンの間の折衝材料として使いやすかった可能性があります。
- 「歴史的シャブリ」と「後発周辺産地」を分ける道具(仮説)
- シャブリ中心部の古い斜面畑は、もともとマール系(キンメリッジアン)の斜面に集中しており、「歴史的にシャブリと呼ばれてきた畑」と「周辺部のより新しい植栽」を区別するレトリックとしてのキンメリッジアンが使われたと考えられます。
- マーケティング上のシンボルとしての「唯一無二の地層」(仮説)
- BIVB の公式サイトでは、シャブリは2つの地質(キンメリッジアンとポートランディアン)のうち、主としてキンメリッジアン上の畑であり、その特異な下層が「純粋さ・フィネス・ミネラリティ」の源であるといった説明が繰り返されています。
- このようなわかりやすい物語が早くから成立していたため、法的な議論の中でも、地質が象徴的に扱われ続けたと考えられます。
重要なのは、こうした動機は史料に明文化されているわけではなく、あくまで「状況証拠からの推測(仮説段階)」です。
しかし、その推測は Vincent らの分析や現行カイエの記述と整合的であり、「地層=キンメリッジアン」という図式が科学的“真理”というより、歴史的・社会的交渉の産物であったことは、研究でも強調されている、という点です。
まとめ:なぜ土壌ではなく地層で線引きされてきたのか
- 実務的・法的には
- 現在の AOC Chablis の仕様書には、「キンメリッジアン期の地層の上でなければならない」という条文は存在しません。
- 生産区域は、過去の裁判・政令・INAO の作業を通じて確定した区画台帳上の範囲として扱われています。
- 歴史的には
- 1920〜30年代の裁判、1938 年政令、1943 年の地図作成などでは、「キンメリッジアン」をシャブリの本来のテロワールの指標とする考え方が、法的な線引きの根拠として繰り返し用いられました。
- しかし 1976 年の政令改正でキンメリッジアンへの言及は消え、1978 年の拡張以降は、地質は「説明・物語」の要素にとどまっています。
- テロワール的には
- ブドウが根を張るのは崩積土などの「土壌」ですが、その分布や性質は、下にあるマール/石灰岩と斜面形状に強く規定されます。
- そのため、「キンメリッジアン」という地層名は、実際には「マール斜面の土壌・地形・気候条件の束」を象徴的に指していると理解するのが適切だと思います。
この意味で、「キンメリッジアン期の地層そのものが、根が届かないのに魔法のようにワインを変える」というよりは、「マール系斜面がつくる一連の環境(冷涼な気候、斜面、石灰質・粘土質の土壌)を、歴史的に『キンメリッジアン』という言葉でまとめて呼び出している」と整理すると、AOC の文言・歴史・現行規定の関係が見えやすくなると思います。
シャブリ・グラン・クリュは7つのクリマで構成されていますが、リュー゠ディがそのままクリマになっているのでしょうか。
また、クリマ名が現在使われている名称になったのはいつごろなのでしょう。
グラン・クリュの7つの名称とリュー・ディの関係
現在の AOC “Chablis grand cru” は、法令上は一つのAOCですが、その内部を
- Blanchot(ブランショ)
- Bougros(ブーグロ)
- Les Clos(レ・クロ)
- Grenouilles(グルヌイユ)
- Les Preuses(レ・プルーズ)
- Valmur(ヴァルミュール)
- Vaudésir(ヴォーデジール)
という、7つの区画名で分割する形になっています。
フランスの公式機関(BIVB など)や専門解説でも、「シャブリ・グラン・クリュのAOCは、7つのリュー・ディ(またはクリマ)に分割されている」「シャブリ・グラン・クリュは7つの歴史的リュー・ディで構成される」と明記されています。
したがって 公的な制度上は、「7つのクリマ = 7つの歴史的リュー・ディ」 という扱いになっている、と整理してよいと思います。
一方で、実際の地籍(cadastre)レベルでは、これら7つの内部にさらに細かいリュー・ディが存在します。
グラン・クリュ名が現在の形に落ち着いた時期
- AOCとしての整理(1938年・1946年)
- 制度面で言うと、
- 1938年:AOC Chablis grand cru が創設され、その際に「7つの区画」がグラン・クリュにまとめて位置づけられた。
- 1946年:改訂により、「Chablis grand cru」に続けて各クリマ名をラベルに併記することが認められた。
- という流れです。
この時点で7つの名称が、法令上の正式なグラン・クリュ名として固定されたと考えてよいと思います。
- 名前自体は中世〜近世から存在
- ただし、名前そのものは 1938年に新しく作られたわけではなく、文献上は中世〜近世から確認できます。
- BIVB の資料では、シャブリで「climat(クリマ)」という語が現れる最古の記録は1537年の文書(ポンティニー修道院所有のブドウ畑)とされています。
- 別の資料では、1537年の公証人文書にすでに “Vaudésir” と “Les Clos” の名声が言及されていると紹介されています(出典として Landrieu-Lussigny & Pitiot を引用)。
各クリマ名の初出と名称変遷(確実な範囲+仮説)
個別のクリマ名について、信頼できる範囲で「いつ頃からその名前が使われていたか」を整理すると、概ね次のようになります(年代は「確実に確認できる下限」として理解してください)。
- Les Clos(レ・クロ)
- 中世からの核心区画
- BIVBの公式資料では、「Les Clos はシャブリの「歴史的なブドウ畑地帯」の『核』であり、ポンティニー修道院のシトー会修道士によって最初に開墾された可能性がある」とされています。
- 文献上の確実な言及
- 1537年の公証人文書において、すでに “Les Clos” が評価の高い区画として言及されていたと紹介されています。
- したがって、「Les Clos」という名称が現在の場所を指すブドウ畑名として定着していたのは、少なくとも16世紀半ばには遡ると見てよさそうです。
- それ以前(12世紀)に「Les Clos」という名前まで遡れるかは、現時点の公開資料だけでは仮説段階です。
- Vaudésir(ヴォーデジール)
- 15〜18世紀にかけての綴り変化
- 15世紀の文書では « vau daisey » などと記録され、その後 « vau daisy », « valdesay », « valdaisay » などの綴りが見られます。
- 1770年にはすでに現在と同じ « Vaudésir » という形が現れたと BIVB サイトで説明されています。
- 名前の由来
- 「願いの谷(val des haits → vau des haits → Vaudésir)」という解釈が紹介される一方で、「Desay 家の谷」という説もあり、由来は複数説が並立しています。
- 場所としてのブドウ畑は少なくとも15世紀から存在し、名称は15〜18世紀のあいだに現在の “Vaudésir” に落ち着いた、という整理ができます。
- Valmur(ヴァルミュール)
- ぶどう栽培の初出
- BIVBの説明では、「1233年にはすでにここにブドウが植えられていた」とされます。
- 名称の変遷
- 16世紀には « vallemeur » という綴りが見られ、その語源について「ブラックベリー=meures の谷(vallée aux meures)」「石を積んだ壁=murs または murgers に由来」説が並立しています。
- ここもブドウ畑としては13世紀から、現在の Valmur に近い名前は16世紀から確認でき、綴りが徐々に Valmur に整っていったと見るのが妥当だと思います。
- Blanchot(ブランショ)
- 1537年の呼称
- 一部ドメーヌの解説によれば、1537年の文書に « couste de blanchot » という形で登場し、その名はゲルマン語系 blank(明るい、白い)に由来するとされます。
- BIVB も「このクリマは土壌・母岩の明るい色(白っぽい石灰質)にちなんで命名された」と説明しています。
- 少なくとも16世紀半ばには “Blanchot” 系の名称が現在の区画を指していた ことになります。
- Les Preuses(レ・プルーズ)
- 名称の由来
- しばしば誤って「勇敢な騎士(preux)」と結びつけられますが、複数のドメーヌや BIVB の説明では、古フランス語の pierreuse(石の多い道)に由来し、近くを通るローマ街道沿いの「石だらけの道」が « Preuse » → « Les Preuses » になったと説明されています。
- 年代について
- 公開資料では、Vaudésir や Valmur のように「○○年に初出」という具体的な年次は明示されていません。
- ただし、19世紀初頭のアンドレ・ジュリアン(André Jullien, 1816)が Chablis の区画を格付け的に列挙する際、Preuses は「第二クラス」に挙げられており、すでに確立した区画名だったことがわかります。
- よって Preuses という地名は少なくとも18〜19世紀には確実に定着しており、それ以前(中世末〜近世)に遡る可能性が高いが、具体的な初出年は現時点では仮説段階、という整理になります。
- Bougros(ブーグロ)
- 19世紀文献での表記
- André Jullien(1816)は、シャブリの「一級区画(première classe)」として Clos, Valmur, Grenouilles, Vaudesir, Bouguereau, Mont-de-Milieu を列挙しており、現在の Bougros に相当する Bouguereau(または Bouguerots)というスペルが用いられています。
- 現代の生産者資料でも、Bougros 内の急斜面区画を “Côte de Bouguerots” と呼ぶ例があり、古い綴りが部分的に残存していることがわかります。
- つまり、地名そのものは19世紀以前から存在し、表記ゆれ(Bouguereau / Bouguerots / Bougros)がありつつ、AOC 制度の中で “Bougros” に統一されたと見るのが妥当です。
- 語源(人名由来か地形由来か)については諸説あり、公開情報は仮説段階のものが多いため、ここでは踏み込みません。
- Grenouilles(グルヌイユ)
- 19世紀時点で一級区画として認知
- 上記と同じく、Jullien(1816)は「第一クラス」に Grenouilles を挙げており、この時点で優良区画名として確立していたことがわかります。
- 名称の由来
- 通説としては「grenouille(カエル)」に由来し、かつて湿地や水辺が多かった地形を反映した名前とされますが、公的な史料で明確に説明されているわけではなく、語源レベルでは仮説段階と考えた方が安全です。
現在のシャブリ・グラン・クリュには歴史的に見ると評価がそれほど高くなかったクリマ(または区画)も含まれているように思えます。
こうした区画は、評価の高い畑が連続している帯の一部に位置していたために、シャブリ・グラン・クリュに含められたのでしょうか。
とくに、歴史的評価の高い Mont-de-Milieu は飛び地であってもグラン・クリュになり得たのではないかと思います。
歴史的評価と現在のシャブリ・グラン・クリュ
- 1938年のグラン・クリュ認定と基本的な考え方(確実な事実)
- 「Chablis Grand Cru」AOC は 1938年1月13日の政令で、AOC Chablis と同時に公式に認定されました。
- この政令では、
- グラン・クリュはスラン川右岸の一続きの斜面(高度約 100–250 m)
- 7つのクリマ名(Blanchot, Bougros, Les Clos, Grenouilles, Preuses, Valmur, Vaudésir)
- 基盤岩はキンメリッジアン期(Kimmeridgian)の石灰岩とマール
- が明示されています。
- 公式ファクトシートでも、
- 「グラン・クリュのクリマはスラン川右岸の谷の上部に連続した帯を形成している」
- 「ここではキンメリッジアンの石灰岩・マールの上にブドウが植えられている」
- 「フランスの AOC の中でも、地質によって明確に定義されている数少ない例のひとつである」
- と説明されており、「右岸上部の連続した斜面」+「キンメリッジアンの基盤岩」という組み合わせが、グラン・クリュの核心的な発想であったことは、かなりはっきり読み取れます。
- 19世紀の評価――Mont-de-Milieu の位置づけ(確実な事実)
- 19世紀初頭の代表的な文献として、André Jullien の Topographie de tous les vignobles connus(初版1816年)がよく引用されます。
- シャブリについて、Jullien は3段階の「品質クラス」に分けており、フランス語版 Wikipedia や二次文献の整理によると、概ね以下のようになっています:
- 第一等
- Le Clos
- Valmur
- Grenouilles
- Vaudésir
- Bouguerots / Bougros(後の Bougros/Preuses にまたがる範囲と解釈されることが多い)
- Mont-de-Milieu
- 第二等
- Côte de Blanchot(Fyé 方面のブランショの斜面)
- Les Preuses など
- 第三等
- Fourchaume, Côte de Fontenay など
- この整理から言えること(事実ベース)は:
- Mont-de-Milieu は1816年時点で、Les Clos や Valmur と同列の「第一等」に置かれていた
- 一方、現代でグラン・クリュとされる区画の中には、Jullien では第二等・第三等に置かれた斜面(Blanchot や Preuses 周辺)も含まれる
- ということで、「現在の7グラン・クリュ=19世紀初頭の最高評価畑だけを抜き出したもの」ではありません。
- 「グラン・クリュ内の序列」は昔から議論があった(確実な事実)
- 近代の評論でも、7 つのグラン・クリュの間に「相対的な序列」を付ける記述があります。
- 例として、英語圏の参考書 The Wines of Burgundy(Jasper Morris とは別の著者による版の抜粋)では、要約すると:
- Les Clos を最も偉大なグラン・クリュとし、
- Valmur や Vaudésir をこれに次ぐ高評価
- Preuses や Grenouilles はより繊細でフローラルなスタイル
- Bougros と Blanchots は「7つの中では最も洗練度が低い」
- といった書き方がなされています。
- また、英国商社 Berry Bros. & Rudd の解説でも、Bougros について「グループのなかではジュニアメンバーと見なされることが多いが、良い造り手の手にかかると非常に良いワインになる」といった記述が見られます。
- つまり、歴史的にも、また近代の評論でも、グラン・クリュの内部には「相対的に上位/下位」とされるクリマがある。しかしそれは「グラン・クリュに値しない」という意味ではなく、「グループ内の微妙な序列」の話という整理が妥当だと思います。
Mont-de-Milieu がグラン・クリュにならなかった理由について
- 現状と評価(確実な事実)
- 現在、Mont-de-Milieu は Premier Cru に属しています。
- BIVB の Mont-de-Milieu のページでは、
- 「右岸の旗艦クリマのひとつ」
- 南向きの斜面、森による北風からの保護
- 基盤はキンメリッジアンの石灰・マールで、小さな石灰岩の小石を多く含む
- といった特徴が強調されています。
- プレミエ・クリュ全体に関する公式資料では、プレミエ・クリュは1967年の政令で創設、「キンメリッジアンの石灰質土壌を持つ特別なクリマ」が対象とされています。
- また、近年の解説では、「Mont-de-Milieu は Montée de Tonnerre の東側に位置し、南向きで、グラン・クリュ並みのリッチさを持つが、より酸主体でエレガント」といった評価が見られます。生産者や評論家のコメントでも「グラン・クリュに匹敵するポテンシャル」といったニュアンスの表現が少なくありません。
- これらを総合すると、Mont-de-Milieu は 歴史的にも近代の評価でも、シャブリのなかで最上位グループに属するクリマ。ただし、法的にはプレミエ・クリュの枠組みに置かれているという状況です。
- 法令・一次資料が「理由」を明示していない点(確実な事実)
- 重要なのは、1938年のグラン・クリュ認定や、その後のシャブリ AOC の改正を定めた政令・仕様書のなかに、「Mont-de-Milieu をグラン・クリュから除外した理由」を直接説明した条文や公式コメントは見当たらないということです。
- したがって、「なぜ Mont-de-Milieu がグラン・クリュにならなかったか」について確実に言えるのは「そう決められた」という事実だけであり、それ以上の「動機」「判断理由」は、現状では 仮説の域を出ないという前提が必要になります。
「連続した評価の高い畑の一角だからグラン・クリュになったのか?」について
ここからは、事実として言えそうなことと、それを踏まえたうえでの「推測(仮説段階)」を分けて書きます。
- 事実として言えること
- グラン・クリュ 7 つは、スラン川右岸のひと続きの斜面にある
- これは公式ファクトシートにも明記されています。
- 7つのグラン・クリュはすべてキンメリッジアンの石灰・マール上にある
- これも公式資料に書かれています。
- Mont-de-Milieu もキンメリッジアンの基盤岩を持ち、歴史的に高い評価を受けてきた
- Jullien は第一等に位置付け、現在もプレミエ・クリュの代表格として扱われている。
- グラン・クリュ内部にも、歴史的・近代的な評価の差がある
- 例えば Bougros や Blanchot は、一部の文献で「7つの中ではやや下位」と評されている。
- 上記事実から導ける「かなり妥当そうな推測」(ただし仮説)
- 上の事実を組み合わせると、次のような推測はそれなりに整合的だと思いますが、一次資料(INAO 内部文書・議事録など)を確認したわけではないので、「仮説段階」であることを明示します。
- グラン・クリュの選定では、「歴史的評価」だけでなく「形の整った一枚の斜面」を重視した可能性が高い(仮説)
- 公式ファクトシートが「右岸の連続した帯」であることを強調していることから、「スラン川右岸の、Chablis の町に対面したひと続きの大斜面」を、「シャブリの象徴的なグラン・クリュ」としてまとめて扱う、という発想があったと考えるのは自然です。
- その中に含まれる個々のクリマ(Blanchot, Bougros など)には、歴史的評価に差があったとしても、「全体としてこの大斜面がシャブリの最上区画である」という認識が優先された、という見方は矛盾しません。
- Mont-de-Milieu は「右岸のグラン・クリュ斜面」に連続していない(事実+仮説)
- 地形図・公式マップを見ると、Mont-de-Milieu はスラン川右岸とはいえ、グラン・クリュ丘陵の連続帯からは谷筋によって少し切り離された「枝状」の丘になっています。
- したがって、「グラン・クリュ=スラン川に面した一つの大斜面」という構図を優先した場合、Mont-de-Milieu を飛び地として加えると、かえって AOC の図形が複雑になる、という判断が働いた可能性があります(仮説)。
シャブリ・グラン・クリュは、個々のクリマ名で販売されることが多く、実際には複数のクリマから収穫されたぶどうをブレンドして造ることも認められているにもかかわらず、その点はあまり知られていないように思います。
このことがムートンヌの立ち位置が誤解される一因だと思いますが、「第8のグラン・クリュ」という表現はいつ頃から使われているのでしょうか。
「第8のグラン・クリュ」という表現について
- いつ頃からか(わかる範囲)
- 正確な初出年は特定できませんが、20世紀のうちに地元の著述家・歴史家が La Moutonne を「第8のグラン・クリュ」と呼んでいたと紹介する資料があります。
- 公開された文章で確認しやすいものでは、2000年代前半〜半ばの専門誌やワイン・フォーラムで、すでに「シャブリには7つのグラン・クリュがあり、そこに非公式の第8グラン・クリュ La Moutonne を加えることもできる」といった書き方が見られます。
- なぜ「第8」なのか(背景)
- 1950年に、La Moutonne を正式なグラン・クリュとして格上げする、すなわち AOC Chablis Grand Cru の内部に「8番目のクリマ」として公式に追加することを想定したデクレ案が作成されたものの、官報に公布されず失効したという経緯があります。
- この「グラン・クリュ昇格未遂」があったため、「本来なら第8のグラン・クリュになっていた区画」という言い回しが生まれ、それが「第8のグラン・クリュ」という表現につながったと考えられます(ここは仮説段階ですが、文献の説明とは整合します)。
- なぜ“第8のクリマ”ではなく“第8のグラン・クリュ”か
- 日常的な説明では、「シャブリには7つのグラン・クリュがある」と言うとき、7つのクリマをそれぞれ1つの「グラン・クリュの畑」として数えていることが多いです。
- この「7つのクリマ=7つのグラン・クリュ」という感覚の上に、「もしもう1つ加えるなら La Moutonne」という話法が乗って、「第8のグラン・クリュ」という表現になっていると考えられます。
La Moutonne の歴史的な立ち位置
- 中世〜革命前:
- グラン・クリュ丘陵の中心部にある現在の La Moutonne の斜面は、シトー会ポンティニー修道院のブドウ畑として長く管理されていたとされます。
- 1791年(革命後の競売):
- 修道院財産の競売で、修道士出身の Simon Depaquit がこの区画を取得し、以後 Depaquit 家が所有。
- 19〜20世紀:
- Depaquit 家のドメーヌが「Château / Domaine Long-Depaquit」として知られるようになり、La Moutonne はその象徴的な区画となる。
- 1970年代以降〜現在:
- メゾン Albert Bichot が Domaine Long-Depaquit を傘下に収め、La Moutonne は Long-Depaquit のモノポールとして継承されています。
- 位置づけ:
- グラン・クリュ丘陵のほぼ中心、約 2.35 ha の急斜面で、約95%が Vaudésir、残りが Preuses 上にあり、地理的にも歴史的にも 「グラン・クリュ地帯の核心にあるモノポール」 と見なされています。
今日ではシャブリとシャルドネは切っても切れない関係ですが、シャブリが「シャルドネを用いた辛口白ワインの産地」として確立したのは、いつ頃からなのでしょうか。
中世〜19世紀
- シャブリ周辺のワインは、ごく早い段階から「白ワインで、しかも軽くて長持ちするタイプ」として認識されていました。
- 13世紀の『La Bataille des vins(ワインの戦い)』では、すでに「Chabliues」の白ワインが優れたワインとして登場します。
- 1816年、アンドレ・ジュリアンはシャブリのワインについて「多くの非常に評価の高い白ワインを生む」「透明な白さを保ち、ボディとフィネスがあり、香り高い」と記しています。
- 当時の文献は主に白ワインとしての評価を語っており、「シャブリ=白ワイン」というイメージはすでに確立していたと見てよさそうです。ただし、この時点ではブドウ品種をシャルドネ単一と限定する記述はまだありません。
「白くて辛口」というスタイルが明示的に意識される時期(19〜20世紀初頭)
- 20世紀初頭の生産者・著述家アルベール・ピックは、1932年の小冊子『Le Vignoble de Chablis』の中で、1919年までは、商習慣として「シャブリ」とはシャブリ地方で収穫された軽やかな辛口白ワインを指す一般名であったと述べています(Monocépage の抄録による)。
- ピック自身が「この慣習は何世紀にもわたるものだ」と書いており、「白で、辛口で、軽やか」というスタイルは、少なくとも19世紀には広く共有されていたと考えられます。
したがって、スタイル面(=辛口の白)で言えば、19世紀の段階でほぼ現在のイメージが出来上がっていたと言ってよいと思います。
「シャルドネ単一」が制度として固まる時期(1919〜1923年)
「シャブリ=シャルドネ」という結びつきが、法的・制度的に明文化されるのは、かなりはっきり時期が追えます。
- 1919年:生産者側の初期案
- 1919年の原産地名称法(AO 法)を受けて、1919年8月2日、シャブリの生産者組合が会合を開き、グラン・クリュの系列を定め、「シャブリは pinot chardonnay(=当地で Beaunois と呼ばれるシャルドネ)から造られるべき」とし、その産地を当時の8コミューンに限定する案をまとめます。
- ここで、シャルドネ単一であるべき、という考え方が「シャブリの正統な姿」として、明示的に打ち出されています。
- 1923年:裁判所による「シャルドネ+キンメリッジアン」原則
- 1923年、トネールおよびオーセールの裁判所が出した判決で、「シャブリ」名を名乗れるのはキンメリッジアン期の地層の上にある畑に限ること、「シャブリ」および「プティ・シャブリ」は、いずれもシャルドネのみから造られること(サシーなどの「普通品種」を除外)とする判断が示されます。
- ここで初めて、裁判所の判断として「シャブリ=(地質としての)キンメリッジアン+(ブドウ品種としての)シャルドネ」という枠組みがはっきり示されます。
- ※この時点ではまだ「AOC」ではなく、1919年法に基づく「AO(原産地名称)」レベルですが、後の AOC 制度の直接の土台になっています。
1938年以降:AOC としての確立
1935年の AOC 法と INAO の発足を受けて、1938年1月13日のデクレで、AOC Chablis / Chablis Grand Cru が制定され、使用品種はシャルドネのみと規定されます。
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- posted : 2025-12-05, update : 2025-12-05
- Author : katabami (Editor) / ChatGPT (Writing Assistant)
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