ワインエキスパートに教わるワイン入門

エノトリアは「ワインの土地」だったのか?

古代ギリシア人はイタリアを「エノトリア・テルス」と呼んでいたのですか。

いいえ。そのようには言えません。

Oenotria tellus は tellus(大地・国土)がラテン語である以上、ギリシア語の呼称というよりラテン語文脈で成立する表現として理解するのが自然です。実例として、ウェルギリウス『アエネーイス』第7巻に “hinc Italae gentes omnisque Oenotria tellus” があり、Oenotria tellus は詩語として(詩的な意味での)イタリア(の国土)を指します。

一方、古代ギリシア語の史料で確認できる呼称は、基本的に Οἰνωτρία(Oinotria/エノトリア)です。たとえばヘロドトス(前5世紀)は、フォカイア人が得た地を「いまはヒュエレ(Hyele)と呼ばれるオイノトリアの都市」と述べます。

またストラボン(前1世紀末〜後1世紀初)は、「古人はオイノトリアだけをイタリアと呼んだ」とし、その古い範囲を「シチリア海峡(=メッシーナ海峡)から、タレントゥム湾(タラント湾)およびポセイドニア湾まで(ポセイドニア=現パエストゥム付近)」と説明します。(現代地理に寄せると、中心は概ねカラブリア〜イオニア海側(タラント湾周辺)〜カンパニア南部(パエストゥム周辺)にかかる帯域です。)

結論:ギリシア人が用いたのは主に Oinotria(エノトリア)であり、Oenotria tellus(エノトリア・テルス)はウェルギリウスのようなラテン語文脈で成立する詩的表現です。

Οἰνωτρία(Oinotria/エノトリア)という呼称は、ギリシア人が来る以前から南イタリアでワインが造られていたことを示すのでしょうか。

この呼称だけでは示していません。結論として、Οἰνωτρία(Oinotria)それ自体は「ギリシア植民(概ね前8〜前6世紀)以前に南イタリアでワイン醸造が行われていた」ことの一次証拠にはなりません。

理由は主に2点です。(1) 語形が oinos(ワイン)を連想させても、命名動機(ワインゆえの呼称か)や植民以前の醸造実態を同時代的に裏づけません。(2) 由来説明が一つに定まらず、人名由来(オイノトロス)と「良いワインが生まれるから」という説明が併存して伝えられるためです(パウサニアス、ディオニュシオス・ハリカルナッソス、セルウィウス等)。

留保:植民以前の栽培・加工の可能性は、呼称とは独立に、考古学・化学分析など別の証拠で評価すべきです。

ギリシア植民以前に南イタリアでぶどう栽培が行われていたと示唆する証拠はありますか。

呼称(Oinotria)とは独立に、考古学的には示唆があります。ただし「栽培」や「醸造」の確実性には段階があります。

北イタリアや中部イタリアでも、南イタリアと同時期にブドウ栽培が行われていたのでしょうか。

ここでは比較の物差しとして、「水浸保存の種子などを直接年代測定し、形態解析(GMM等)に加えて(可能なら)古代DNAでも domestic 型を支える」水準を“強い証拠”として扱います。

南イタリア(Grotta di Pertosa)と同程度の強さの証拠にそろえて比較すると、北イタリア・中部イタリアで同時期に「栽培ブドウ(domestic)が確立していた」と肯定するのは難しいです。

南イタリア(比較の基準)

Grotta di Pertosa の研究は、水浸保存のブドウ種子を直接^14C年代測定したうえで、GMM(形態解析)と古代DNAを併用し、中期〜後期青銅器時代(1445–1192 cal BCE)に野生型優勢の中で“domestic型が一定割合で存在する”ことを示しています。

さらに議論として、当時の東地中海(ミケーネ系交流を含む)の接触の枠内で、エーゲ海方面から導入された栽培ブドウが在地野生と交雑し得る、というモデルを提示しています(=植民期ではなく、それ以前の交流の可能性)。

北イタリア・中部イタリア

イタリア各地の水浸種子を同一手法で評価した大規模研究では、中期青銅器時代(ca. 1600–1300 BC)は依然として野生型が優勢で、「domestic」判定は小さすぎ有意ではないと述べられています。この意味で、「Pertosa級の確実性」で北・中部の同時期栽培ブドウ成立を肯定するのは難しい、という結論になります。

ただし北イタリアでも「野生ブドウの利用/管理(半栽培)」はあり得ます

北イタリアの Terramara Santa Rosa di Poviglio(中〜後期青銅器)では、Vitis 花粉の議論から、近傍に野生雌株が存在し、環境内で保護・管理(care/cultivate)された可能性が述べられています。

ただしこれは、栽培ブドウ(domestic)が確立していたことの直接証拠ではなく、北・中部における「利用→管理→(のちの)栽培確立」へ至る過程の一部として位置づけるのが安全です。

結論:「同時期にすでにdomesticが確立」とまでは言いにくいです。

留保:ただし「利用/管理」の段階はあり得、地域ごとの“確立”の時期はずれ得ます。

イタリアで最も早くワイン醸造が行われたのは南イタリアになるのでしょうか。

一概には言えません。

理由は、「最古のワイン醸造」が指しうる対象が複数あるためです。ここを分けないと結論がぶれます。

「最古」を3段階に分けます

(1)「最古級の内容物証拠」なら、現状はシチリアが有力候補として挙げられます

シチリアの Monte Kronio(銅石器時代:概ね前3500–前2300年)の土器残留物について、酒石酸と酒石酸塩(ナトリウム塩)が検出され、ワイン(発酵ブドウ製品)に整合的な指標として報告されています。

ただし、ここで言えるのは基本的に「その容器にブドウ由来の液体(ワイン等)が入っていた」までです。酒石酸はブドウ(およびブドウ派生物)の強い指標ですが、酒石酸“単独”ではワイン/マスト/酢の切り分けが難しいため、解釈は考古学的文脈と併せて行う必要があります。さらに、内容物証拠は輸送・移入の可能性を論理的に完全排除できないため、「その場で醸造した」とまで自動的に確定するわけではありません。

半島本土に限ると、「最古=南」とは言い切りにくいです

シチリア・サルデーニャを除くイタリア半島本土に絞ると、北東イタリアの青銅器時代土器(概ね 前1500–前1300年)で酒石酸が検出され、著者らは「ワインが消費され、場合によっては生産もあり得る」と議論しています。これはやはり内容物証拠であり、醸造現場まで一発で確定するものではありません。

(2)〜(3)「その場で醸造」に近づく証拠は、南(本土南部)では前10〜9世紀(少なくとも前9世紀)で目立ちます

南イタリア本土で「生産現場(vinification context)」に近い議論が出やすいのは、現状では前10〜9世紀(少なくとも前9世紀)頃の例です。たとえばカンパニアの Poggiomarino/Longola は、“ワイン醸造(vinificazione/wine-making)の痕跡”としてしばしば引用されます。(ここは「現場性」が強い一方、年代は Monte Kronio の内容物証拠より下る、という関係になります。)

また島嶼部ですが、サルデーニャの Nuraghe Genna Maria では石造の圧搾施設(palmento)がワイン加工に用いられたことを検証する研究があり、年代は概ね前10〜9世紀とされます。

結論:「最古」を(1)(2)(3)のどれで言うかで答えが変わります。

留保:「南が最古」と断定するには、同一の証拠水準で地域比較が必要です。

南イタリアではギリシア人の植民によって本格的なぶどう栽培やワイン醸造が始まったと思いますが、他の地域もギリシアの影響を受けているのでしょうか。

一概には言えません。

ただし比較として言うなら、中部(とくにエトルリア圏)は、ギリシア植民期(前8〜前6世紀)と近い時期に、ブドウ栽培・ワイン醸造が“拡張・可視化”していく一方、北イタリアは同じ時期に「ギリシアの影響で本格化した」と言える形にまとまりにくく、より間接的(エトルリア圏を介する/後のローマの統合を介する)に説明しやすい、という整理になります。

南イタリア:植民期は「開始」より「加速・組織化」と捉えるのが安全

南イタリアでは、植民以前にもブドウ栽培の基盤が存在した可能性が考古学的に示唆されるため、この時期の変化は「ゼロからの開始」というより、港市の成立に伴う需要の集中と交易網の整備によって、栽培・醸造が規模化・組織化され、余剰生産(商品化)がより可視化されるようになったと捉えるのが安全です。

中部(エトルリア圏):植民地ではないが、同じ時期に「余剰生産の可視化」が強まる

前8世紀後半以降、ギリシア人・フェニキア人との接触の中で、ワイン消費・輸送の証拠が徐々に目立ち始め、前7世紀末までに“大規模な生産と輸送”を示す証拠が一般化すると整理されます。

ただしこれは「ギリシア人が中部で栽培・醸造を開始させた」というより、交流圏への接続で需要・流通が拡大し、余剰ワインの輸送(アンフォラ)が増える=生産が拡張した、と読むのが筋です。

北イタリア:同時期(前8〜前6世紀)に「ギリシアの影響で本格化」を言い切りにくい

北イタリアについては、同時期に「ギリシアの影響で栽培・醸造が本格化した」と結びつけられる証拠の束を作るのが相対的に難しく、影響は多くの場合、中部(エトルリア圏)の交易圏を介した間接波及、さらにローマの統合を介した広域化として説明しやすいという立て付けになります。

付表

地域 栽培(畑・種子) 加工・醸造(残留物・圧搾・施設)
南イタリア(カンパニア等) 植民期以前に基盤が先行:Grotta di Pertosa の水浸種子は、直接^14C+GMM+aDNAで前1450–前1200年に栽培ブドウ(domestic)の存在が示唆されます。 現場性に近い例が前10〜9世紀に出る:Campania の Longola di Poggiomarino では、前10〜9世紀に圧搾ブドウ残渣(pressed grape residues)が報告された、という整理があります。
中部イタリア(エトルリア圏など) 前7世紀BCEまでに在地文化が viniculture を習熟した、という総説的整理があります。 施設(生産の可視化)が強まるのは前6世紀後半〜前4世紀:エトルリア農場の農業施設でワイン生産の増大が可視化される、という枠組みで述べられます。
北イタリア(ポー平原〜北東部) 中期青銅器(前1600–前1300)は野生型優勢で、domestic判定はごく少数にとどまる、とする大規模研究があり、「同時期にdomestic確立」とは言いにくい配置です。 北東部の青銅器時代土器(前1500–前1300)で酒石酸が検出され、「ワイン消費、場合によっては生産」まで議論されます。ただし酒石酸は“ワイン”断定や「その場で醸造」断定には留保が必要です。
サルデーニャ 植民期以前に栽培化が進んだ可能性:水浸種子で中期青銅器〜後期青銅器末にdomestic類似が報告されています。 前10〜9世紀に圧搾施設+酒石酸(現場性):Nuraghe Genna Maria の石造施設がワイン加工に用いられたことを検証する研究があります。
シチリア 内容物証拠として最古級候補:Monte Kronio(銅石器時代)の土器残留物で酒石酸等が報告されます。ただし内容物証拠=現場醸造の確定ではありません。

イタリアのぶどう品種には「ギリシア由来」を思わせる名称のものが多くありますが、実際にギリシアから持ち込まれたことが分かっている品種はありますか。

「古代の植民期(概ね前8〜前6世紀)に、ギリシアから“特定の品種(同一のクローン)”がイタリアへ持ち込まれ、現在の在来主要品種として残った」と、同一性と移動方向の両方を確証付きで言える例は、現状では挙げにくいというのが最も安全な整理です。

この問いを品種レベルで確定するには、少なくとも次の2点が必要です。

  1. ギリシア側とイタリア側が同一品種(同一遺伝子型)であること
  2. そのうえで、移動方向(ギリシア→イタリア)を支える史料連続と年代整合

しかし、古代〜中世の植物材料移動は同定が難しく、史料も断片的なため、この2条件を同時に満たすケースはほとんどありません。

「ギリシア的名称」は移入の証拠にならない

「Greco/Grecanico/Ellenico」などの名称は、ギリシア語圏や東方(ビザンツ的)文化との接点を反映した呼称として解釈されることが多い一方、名称だけで「ギリシアから持ち込まれた」と証明することはできません。

さらに、名称が“ギリシア的”でも、同定上は同義語(シノニム)として整理される例があります。たとえば Grecanico Dorato は、VIVCでは Garganega の同義語に含まれます。

→ これは、「ギリシア的名称=ギリシアから来た別品種」という推論が成り立たない典型例です。

ゲノム研究が示す「単線的移入モデル」の限界

大規模ゲノム解析(Dong et al., 2023)は、西アジア側の栽培化系統が欧州へ拡散し、欧州側の野生系統と introgression(遺伝子流入) を起こしたことを示しています。

この枠組みでは、「ギリシアで完成した品種が、そのまま主要品種としてイタリアで保存された」という単純な図式は成立しにくく、仮に植物材料の移動があったとしても、その後の長期的な交雑と再選抜の中で、別の品種として成立した可能性を常に残します。

「Greco/Grecanico/Ellenico」など、ギリシア由来を思わせる名称は、いつ頃・どのような経緯で付けられたのでしょうか。
また、名付けた人は、そのぶどうがギリシアから持ち込まれたと考えていたのでしょうか。

結論から言うと、古代植民期に“品種名”として固定されたと確定できる例は少なく、少なくとも文献上は、まず 「vino greco(ギリシア的とされるワイン)」のようなワイン名・カテゴリー名が中世後期に見え、その後に近世〜近代のアンペログラフィーと公的登録を通じて、品種名(ブドウ名)として整理・固定されていく、という順序で把握するのが安全です。

名付けた人は「ギリシアから来た」と思っていたのか

ここは 「常にそうだった」とは言えません。理由は大きく2つあります。

また「Ellenico/Ellenica」のように、“ギリシア的呼称”が同義語として付随している例もあります。したがって、「そのように呼んだ人がギリシア性を意識した」可能性はありますが、それは“由来の証明”ではなく、呼称史(どう呼ばれてきたか)の記録にとどまります。

加えて、語源(なぜそう呼ばれたか)の説明自体が割れていることにも注意が必要です。つまり、「名付けた人がギリシアからの持ち込みだと考えていたはずだ」と一本化するのではなく、後世の学説・民間語源・権威付けの語りが重なってきた、と整理するのが安全です。

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