ワインエキスパートに教わるワイン入門

貴腐ワインとは

貴腐ワインについて教えてください。

定義
貴腐ワインとは、ボトリティス・シネレア(Botrytis cinerea)と呼ばれるカビがぶどうに付着し、果皮から水分が蒸発して糖分や酸が凝縮したぶどうから造られる甘口ワインを指して用いられる名称です。このカビは「貴腐菌」「高貴な腐敗(noble rot)」と呼ばれ、適切な条件下でのみ良質な貴腐化が進行します。
生産条件
  • 気候:秋に朝霧と日中の晴天が繰り返される地域(例:フランス・ソーテルヌ、ハンガリー・トカイ)が理想的です。
  • ぶどう品種:果皮が薄く、貴腐にかかりやすい品種(セミヨン、フルミント、リースリングなど)が多く使われます。
  • 収穫:感染の進み具合を見極めて、複数回に分けて手摘み収穫(トリ=tries)することが多いです。
特徴
  • 味わい:濃厚な甘味に蜂蜜やアプリコットを思わせる果実香が重なり、スパイスや花のニュアンスを含む複雑さがあります。
  • 酸とのバランス:酸がしっかり残るため、甘さが重く感じにくく、長期熟成にも耐えます。
主な産地
  • ソーテルヌ(フランス):セミヨン主体の黄金色のワイン。
  • トカイ(ハンガリー):アスーやエッセンシアと呼ばれる伝統的な甘口ワイン。
  • ラインガウ・モーゼル(ドイツ):貴腐ぶどうを用いたベーレンアウスレーゼやトロッケンベーレンアウスレーゼが多く造られています。

ボトリティス・シネレアは「灰色カビ」とも呼ばれ、灰色カビ病は農作物の主要な病害のひとつですが、ぶどうの貴腐化とはどのように区別されているのでしょうか。

ボトリティス・シネレア(Botrytis cinerea)は、同じ菌であっても、発生条件によってぶどうへの作用が異なります。

区別のポイント
  1. 気候条件:乾湿のリズムがあるかどうか。
  2. 進行の速度:緩やかに進行するか、急速に腐敗するか。
  3. 果粒の状態:しわしわに干しぶどう状になるか、崩れて液化するか。

このように、同じ菌でも発生環境と進行パターンの違いによって、ワインにとって望ましい貴腐化か、有害な灰色カビ病かが決まります。

貴腐ぶどうは手摘みで収穫しますが、灰色カビ病と区別がつきにくい場合もあると思います。外観だけで正しく選別できるのでしょうか。

外観だけでは完全には判別できません。
ただし、熟練者は外観を主軸に、触感・香り・味見をその場で補助に使い、複数回のトリで精度を高めています。

実務的な見分け方(畑での即時判断)
  • 貴腐(拾う)
    • 果粒が均一に萎縮して干しぶどう状になっています。
    • 液漏れが少ない、房が崩れにくいです。
    • 触ると軽く、割ると粘度のある甘い果汁が少量出ます。
    • 香りに蜂蜜・アプリコット系が出やすいです。
  • 灰色カビ病(外す)
    • 灰色の綿毛状菌糸がはっきり見えます。
    • 果粒が水っぽく軟化し、液漏れや房の崩れが起きやすいです。
    • 不快なカビ臭を伴いやすいです。
  • 迷う粒(境界)
    • 基本は外すか、次回のトリに回します(保守的に判断してロットの一貫性を守ります)。
精度を上げる運用
  • トリ(2〜数回)を前提にします: 天候によって貴腐果が灰色カビに進行する可能性があるため、一度で決め切らず複数回に分けて収穫します。
  • 選果台で再確認します:畑で拾った後も、迷い粒を外して混入リスクを下げています。
要点
  • 外観は最重要ですが、外観だけに依存すると取り違えが残るため、触感・香り・味見を併用してその場で補正しています。
  • 迷う粒は拾わない、もしくは後回しにして繰り返しの通し摘みで精度を上げています。

貴腐化によってぶどうはとても甘くなりますが、そのメカニズムと、普通のぶどうと貴腐ぶどうの違いを教えてください。

物理的“脱水”による濃縮(主因)
ボトリティス・シネレアが果皮・果肉の細胞壁やクチクラに微細な損傷を与えると、朝の湿潤と日中の乾燥が繰り返される環境で水分が抜け、果汁成分(糖・酸・ミネラル等)が濃縮します。貴腐の本質はこの水分蒸散による濃縮です。
菌・果実の代謝変化は“従”(甘さを補助)
  • 糖組成の偏り:ボトリティス・シネレアはグルコースを優先的に利用するため、果汁中のフルクトース比が相対的に高まる傾向があります(“甘味”そのものは脱水が決め手)。
  • グルコン酸の生成:グルコースの酸化によりグルコン酸が増えます(“甘さ”の原因ではなく、感染履歴の指標)。
  • 代謝のリプログラミング:貴腐化は成熟・ストレス応答経路を再編し、香気前駆体や二次代謝物のプロファイルを変えます。
目安:貴腐果は糖濃度がしばしば ≥350 g/Lに達します(品種・年・産地で変動)。ただし“高糖=良質”ではなく、香味と酸のバランスが重要です。
普通のぶどう vs. 貴腐ぶどう(違いの整理)
観点 普通の完熟ぶどう 貴腐ぶどう
水分 正常 大きく脱水(しわ・干しぶどう状)
糖濃度(g/L) 品種・熟度相当 大幅上昇(例:しばしば ≥350 g/L)
糖組成(G/F) およそ同程度 ボトリティス・シネレアがG(グルコース)優先利用 → F(フルクトース)優位になりやすい
酸組成 酒石酸・リンゴ酸が主体 リンゴ酸低下傾向+グルコン酸上昇(感染の副産物)
酵素・酸化リスク 通常 ラッカーゼ存在で酸化感受性が上がる(“甘さ”の原因ではない)
香り 果実・花の一次香中心 蜂蜜様のフェニルアセトアルデヒド、ラクトン/フラノン、揮発性チオールなどによるドライフルーツ〜蜂蜜系の複雑香
外観・触感 張り・多汁 軽い・粘度の高い濃い果汁が少量、房は崩れにくい
重要な補足
  • “甘さ”の直接因は脱水です。ボトリティス・シネレアの代謝は糖組成や香りを変える補助的要因で、甘さの主因ではありません。
  • 香りの特徴は研究で一貫:フェニルアセトアルデヒド(蜂蜜様)、各種ラクトン・フラノン、β-ダマセノン、揮発性チオール等が寄与します。

ドイツの Trockenbeerenauslese に使われるぶどうの糖度は 150° Oe(21.5 % vol.)以上ですが、これを「糖濃度」に換算するとどれくらいになりますか。

結論(数値)
  • 150° Oe は規程上の対応で21.5 % vol.(潜在アルコール)に相当します。
  • EUの換算係数 16.83 g/L(発酵糖)= 1 % vol. を用いると、
    糖濃度 ≈ 21.5 × 16.83 = 361.845 g/L(≈ 362 g/L) です。
係数について
  • EUの技術・法令実務では、1 % vol. を得るのに必要な発酵糖は 16.83 g/L を用いるのが標準です(酵母等で実効値は前後しても、基準は16.83)。
  • なお、ドイツの実務資料ではアルコール収得率 46.5 %(≒ 17 g/L=1 % vol.)を採る表もあります。この係数で計算すると 365.5 g/L になります(係数の違いによるブレ)。
参考(近似のクロスチェック)
  • 現場の近似式 糖(g/L) ≈ °Oe × 2.5 − 22 を使うと、150 °Oe → 約 353 g/L。係数16.83で逆算すると約 21.0 % vol.となり、上記の厳密換算(21.5 % vol. → 約 362 g/L)よりやや低めに出ます。これは °Oe(密度指標)→ 糖への近似の粗さによる差です。
要点
  • 公式換算:EU係数 16.83 g/L=1 % vol. → 150 °Oe(21.5 % vol.)≒ 362 g/L。
  • 実務の幅:一部の独語資料は 17 g/L=1 % vol. を採用(≒365.5 g/L)。

ドイツの Beerenauslese/Trockenbeerenauslese は一般的に低アルコールで造られますが、ソーテルヌは 12 % vol 以上、クリュ・クラッセでは 14 % vol 前後になります。なぜフランスでは貴腐ワインに高いアルコール度数を求める価値観が生まれたのでしょうか。

フランスでは、「liquoreux(リクルー)」=“甘くかつアルコールが豊かな”という語義と官能観が早くから言語として定着し(辞書定義に明確)、その味覚観が19世紀の市場・批評・格付で名声と価格によって強化され、20世紀のAOCが下限アルコールとして数値化した——という「言語(語義)→市場(価格)→制度(AOC)」の段階的形成が背景にあります。単一の醸造的“合理性”というより、文化‐経済‐制度が積み重なって成立した価値観です。

言語(語義)—「Liquoreux=甘くてアルコールが豊か」
フランス語の Liquoreux は、アカデミー仏語辞典やCNRTLの定義で「甘く、アルコールが豊かな」飲料、とくにワインを指します(語源は16世紀)。つまり語そのものが「甘さに加えてアルコール由来の豊満さ」を価値として含意しており、味覚観の土台が言語レベルで早期にできていました。
市場(価格)—19世紀の評価・流通が“高アルコールの甘口=高級”を強化
19世紀、ボルドーの1855年格付はソーテルヌ/バルサックの甘口白を独立格付(Yquem を唯一のPremier Cru Supérieur)として提示し、序列を市場価格に基づき整えたことが広く記録されています。ここで高値=高級という権威づけがなされ、濃密で豊満な甘口(=Liquoreux像)が名声と価格を通じて定着しました。
参考:当時の地誌やモノグラフ(例:Féret ほか)でも、ソーテルヌ周辺は「甘口白(Vins liquoreux)」の特産として繰り返し記述され、言説と市価が相互補強していきます。
制度(AOC)—価値観の数値化(下限アルコールの明文化)
こうして定着したスタイルが、20世紀のAOCで取得アルコールの下限として明文化されます。たとえばSauternes AOCは自然アルコール度(潜在)≥15 % vol、取得アルコール≥12 % vol を規定し、「甘さ+十分なアルコール」というリクルー像を規格として固定しました(ロワールの貴腐AOCにも同様の傾向)。
まとめ
  • なぜ高アルコールを求めるのか?
    語義と官能観(Liquoreux)が「甘さに加えアルコールの豊満さ」を内包 → 19世紀の市場・批評・格付が価格と名声でそれを強化 → AOCが下限アルコールとして数値化し、スタイルを継承したからです。
  • したがって、フランスの貴腐甘口で高アルコールが重視されるのは、醸造操作の一要素というより、言語文化・市場慣行・制度設計が連鎖して形づくった歴史的価値観の帰結といえます。

ソーテルヌやトカイなど欧州の貴腐ワインの産地では「貴腐」や「貴腐ぶどう」を表す語はあるのに、「貴腐ワイン」に当たる概念がないのは、なぜでしょうか。

欧州では、法的・表示上の体系が「製法名」よりも「原産地名(PDO/AOC)や様式名」を優先しており、“貴腐”は原料ぶどうの状態(栽培・収穫段階の属性)として扱われるため、統一の一般名「貴腐ワイン」を設けていません。

各地域は固有の呼称(Sauternes、Tokaji Aszú、Beerenauslese など)や様式表示(vin liquoreux、Sélection de Grains Nobles)で表現します。EU共通の製品カテゴリーにも“noble rot wine”は存在しません。

“貴腐”はぶどうの状態=原料条件として規定される(製品名ではない)
例:ソーテルヌのAOC仕様書は、「成熟期を過ぎ(surmaturité)、ボトリティス・シネレアが発生したぶどうを、選果しながら複数回に分けて手摘み収穫する」と規定していますが、製品名は一貫して “Sauternes” です(“vin de pourriture noble”という法定製品名は設定されていません)。
地域固有の呼称が“貴腐”スタイルの担い手になっている
  • アルザスでは「Sélection de Grains Nobles(SGN)」という法定“記載(mention)”があり、貴腐ぶどう由来の甘口を表すのに用いますが、これも製品の一般名ではなく、AOCの枠内の表示です。
  • ドイツは「Beerenauslese/Trockenbeerenauslese」という称号(Prädikat)で事実上の貴腐甘口を指しますが、“Edelfäulewein(貴腐ワイン)”のような一般名は通用しません。
  • ハンガリーには歴史的に 「Aszú(貴腐粒)/Aszúbor(アスー“ワイン”)」 という自国語の枠組みがあり、現在はPDO “Tokaj” の製品カテゴリーとして “Aszú” が用語上の主役です(仕様書でも Aszúszem=貴腐粒 を定義しています)。
EUの製品カテゴリーに“貴腐ワイン”は存在しない
EUのワイン製品区分(Reg. 1308/2013 Annex VII Part II)は、「ワイン」「酒精強化ワイン」「発泡性ワイン」「過熟ぶどうからのワイン(wine of overripe grapes)」など製品形態ごとの区分で統一されており、“botrytised/noble rot”はカテゴリー名になっていません。したがって共通一般名としての「貴腐ワイン」も置かれない構造です。
“貴腐”は表示の補助語(記述・例示)として扱われる
OIVやコンクール規程等では、「botrytised wine」は甘口群の一例として並記されますが、法定の製品名ではなくスタイル説明です。EUのPDO文書でも、「Muffa Nobile(貴腐)」は追加的表示として扱われる例があります(例:Orvieto の仕様書)。
消費者表示とブランドの事情
フランス語の“vin liquoreux(糖分とアルコールが豊かなワイン)”のように、風味様式で伝える語が古くから定着しており、“pourriture(腐敗)”という語感を製品名の正面に出さない伝統も背景にあります。

欧州以外で、ワイン法など公式に用いられている「貴腐ワイン」に相当する用語はありますか。あわせて、欧州・欧州以外を問わず、公式でなくても日本語で「貴腐ワイン」と訳し得る一般用語(ラベル用語・業界慣用語)があれば教えてください。

欧州・欧州以外を問わず、「貴腐ワイン」に一対一で対応し、ワイン全般に横断的に使われる公式名称(法定カテゴリー名)は存在しません。

公式ではないが「貴腐ワイン」と訳し得る一般用語

いずれも説明語であり、法定カテゴリー名ではありません。

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