「本格的に」をどの段階(導入/定着・拡大/近代の大規模化)として捉えるかで答えが少し変わりますが、要点は次のとおりです。
まとめ:ラングドック・ルシヨンのブドウ栽培は、南仏(地中海フランス)全体としては紀元前6〜5世紀ごろからの導入が論じられ、とくにラングドック側ではローマ期に産地としての拡大が見えやすく、近代(17〜19世紀)に流通革命を背景に大規模化した――という三段階で捉えると理解しやすいです。
はい。ただし“マルセイユ一極”のように単純ではなく、ラングドック側には複数の海上交易拠点(港・河口・潟湖港)があり、そこから段階的に広がったと捉えるのが妥当です。
ラングドックでは、まず沿岸の港湾拠点で輸入ワインの流通・消費が広がったと考えられます。ラッタラ(Lattara/現Lattes)は、潟湖と河川に面した古代の港湾集落で、地中海交易と在地社会を結ぶ結節点でした。
ラッタラは輸入ワインの流通を示す遺物(ワイン用アンフォラ)と、現地でのワイン生産を示す設備(圧搾設備など)が、時期を違えて確認される点で重要です。
この段階で言えるのは、アンフォラ出土が「流通・消費」の強い証拠になる一方で、それだけでは現地生産を直接には示さない、という点です。
近年の考古植物学のレビューでは、フランス南東部〜地中海沿岸(ラングドックを含む)で、ブドウ栽培は紀元前6〜5世紀ごろに開始した可能性が示されています。
マルセイユ(古代名マッサリア)のような外港・前進拠点は南仏沿岸に複数あり、たとえばアグド(Agatha/現Agde:エロー川河口付近の港湾都市)は、紀元前525年ごろにフォカイア人が築いた植民市と整理されています。
その後、ローマの都市整備と街道網が内陸への普及を後押ししました。前述のナルボ(ナルボンヌ)を結節点の一例として、Via Domitia のような幹線交通が、モノと人の移動を容易にしたと考えられます。
一般論としても、栽培が広域に広がる局面では、交易路(モノ・人・技術・苗木の移動)と政治的統合(治安・制度・インフラ)が効きます。
要するに、ラングドック・ルシヨンでも「港(交易拠点)が起点」という見方は有効ですが、港が一つの都市に集約されていたわけではなく、沿岸の複数拠点と、その後のローマの交通・都市ネットワークが重なって“面”として拡大した、という整理が安全です。
結論から言うと、初期段階のブドウ栽培は「港(潟湖港・河口港)に近い在地の耕作圏(集落周辺の畑・園地・河川/潟湖沿いの利用地)の延長線上」で始まった可能性が高いです。
一方で、「先住の人びとの土地を一方的に奪って一気に開墾した」と一般化して言い切れるだけの根拠は乏しい、というのが現時点での結論です。
ラングドック沿岸(例:ル・レズ川流域〜潟湖域)の環境は河川と潟湖がつくる湿地的な景観の中に、カシ類の林やトネリコ・ニレを含む低地林があり、さらに発掘で確認される水鳥や湿地性の小動物(両生類・魚類など)と、林地に由来する小型哺乳類の“組み合わせ”から、淡水域・汽水域・湿地と林地が近接していたことが示されています。
また、花粉分析に基づく地域スケールの研究では、少なくとも青銅器時代以降(おおむね紀元前22世紀以降)、地中海フランスの沿岸低地で人間活動の影響が植生(森林被覆)を大きく変えた時期があったことが述べられています。
このため前提として、人が暮らし、資源を採り、場所によっては耕作地・園地も含む「モザイク状の景観」があり、その中で「畑にしやすい場所」は限られていたと考えられます。
この段階で言える要点は、沿岸の交易拠点では、輸入ワインの流通を示す遺物(ワイン用アンフォラなど)が多数出土し、輸入ワインの流通が相当規模で行われていたことです。
一方で、それらは主に「流通・消費」を示すもので、圧搾設備や残留成分など、ワインの現地製造に直接結びつく証拠はこの段階では多くありません。
現地生産を論じるには、圧搾・醸造・残留成分、あるいは栽培の痕跡(とくに木炭=剪定枝など)が重要になります。
ラッタラについては前述のとおり、「輸入(アンフォラ)→現地生産(圧搾設備)」の段階差を示す代表事例です。研究論文は、紀元前425〜400年ごろの圧搾設備が現地のワイン生産に用いられたことを示しており、少なくともこの時点で港の背後地にブドウ栽培が成立していたことを示唆します。
さらに近年の総合研究(考古植物学:種子・果実+木炭など)では、地中海フランス全体のデータとして、木炭と種子の傾向が一致し、ブドウ栽培が紀元前6〜5世紀には始まった可能性が示されています(木炭はとくに、近くで栽培されていたことを示す手がかりになりやすい、と述べられています)。
この流れを踏まえると、外来の知識や栽培・醸造の慣行が持ち込まれた可能性が高く、(必要に応じて)苗木の移動も伴ったと考えられます。
文献・考古学の性質上、「最初の畑の立地」を地図の一点として確定するのは難しいですが、ラッタラのような潟湖港を念頭に置くと、次の特徴を備えた場所が畑になりやすいと考えられます。
なお、文化省ページには燃料材として「ブドウ樹」を含む果樹材の利用が書かれていますが、これは栽培ブドウ由来と野生ブドウ由来の両方があり得るため、単独で「畑がここにあった」とまでは言えません。ただし、ブドウ樹が身近な資源として存在していたことは示します。
この点は、ラングドック・ルシヨンの初期段階(とくに前6〜前5世紀)について、決め手になる文字史料が限られるため、言える範囲が限られます。
文化省の説明では、ラッタラの成立は、紀元前6世紀後半に在地の人びとが潟湖とレズ川を見下ろす小丘に住み始め、外来の船乗り・交易者に“促された可能性”にも触れつつ、周辺の分散集落を一部まとめた、という形で描かれています。
これは、少なくともこのケースが「外来者が来て土地を奪い、ゼロから農地化」という単純な図ではなく、在地社会の居住や土地利用の上に交易拠点が組み合わさったことを示唆します。
また同じ概説は、ラッタラが在地集団と西地中海各地の人びとの接点で、船乗りが定住した可能性にも触れています。
一方で、植民や交易拠点の形成が、交渉・婚姻・同盟・混住のような形を取り得るのと同時に、緊張や暴力、排除を伴う可能性があることも論点になっています。ただ、少なくともラッタラの説明の範囲では、在地の居住・土地利用の上に交易拠点が重なった姿が描かれており、「一方的に土地を奪って開墾した」と一般化するのは避けるのが適切です。
この問いは、同じ「痕跡」でも ①野生ブドウの利用(採集)、②栽培、③ワイン生産で証拠の性格が違うため、区別して見たほうが分かりやすいです。ラングドック・ルシヨン単独の決定打は限られるので、南仏(地中海フランス)を含む広域研究も併用します。
南仏を含むフランスの考古学的ブドウ種子データを大規模に扱った研究では、長期の時間軸の中でまず「野生ブドウの利用」があり、その後に変化が起きたと述べています。
ただし、種子の出土は「その場にブドウがあった/利用された」ことを示しやすい一方で、採集なのか、栽培なのかまでは単独で決めにくい場合があります(出土状況・量・種子形態などを合わせて判断します)。
ブドウ種子の形態計測(モルフォメトリクス)研究では、フランスのデータ全体として、紀元前600〜500年ごろに「野生利用から栽培ブドウの拡大」へ移ることが示され、その変化は地中海の文化的影響や、東方系ブドウタイプの導入と同時期だと書かれています。
この「前600〜500年ごろ」というタイミングは、南仏沿岸での地中海ネットワークの拡大と重なります。
そのため、栽培型が急に目立つようになる現象は、先住の人びとだけで完結した変化というより、外来の需要(市場)や技術・慣行の流入が、在地側の変化(定住・土地利用・交易の拡大など)と重なって、ブドウ栽培の拡大を後押しした、と捉えるほうが自然です。
一方で同研究は、初期の栽培が小規模であったり、野生個体群との交雑が強い段階だったりすると、形態だけでは「はっきり栽培型」に見えにくい可能性も示しています。
「ワイン生産」を言うには容器の残留物分析や圧搾設備など、より直接的な証拠が重要になります。
ラッタラは前述のとおり、輸入ワイン(アンフォラ)と現地生産(圧搾設備)が段階的に現れることを示す代表事例です。PNAS論文は、輸入アンフォラ(前500〜475年ごろ)の残留物と、圧搾設備(前425〜400年ごろ)の分析にもとづき、南仏におけるワイン生産を直接に裏づける強い証拠を提示しています。
同論文はさらに、イタリア側からのワイン輸出が南仏で需要と関心を高め、それがブドウ樹の移植と現地生産につながったという流れも述べています。
野生ブドウでも果汁に十分な糖分があり、果皮に付着した野生酵母などで自然発酵が起こり得るため、野生ブドウを使った発酵飲料が作られた可能性自体は否定できません。とはいえ、現在の資料からは、(1)「野生利用」から「栽培ブドウの拡大」へ動く大きな転換が前600〜500年ごろに見えること、(2)「ワイン生産」を直接に裏づける強い証拠が、少なくとも前5世紀には南仏で確認できること、の2点までは言えます。
このため、先住段階では野生ブドウの利用が中心で、栽培とワイン生産が広い範囲で目立つようになるのは、地中海ネットワークの拡大と並行して進んだ、と書くのが自然です。
はい、ローマ時代(とくに初期ローマ帝政期)には、南仏のガリア・ナルボネンシス(現在のラングドックを含む)で、ブドウ栽培とワイン生産が設備投資を伴う専門化・商業化として大きく広がったことを示す証拠が多くあります。
専門化・商業化が進んだとしても、現場の農業が一様にブドウ単作になったとは限らず、土地条件や経営方針により 穀物・牧畜などとの組み合わせは残り得ます(この点は遺跡ごとの差が大きい領域です)。
ローマ帝政初期(おおむね1〜2世紀)のラテン語の伝記作家・学者スエトニウスによれば、ドミティアヌス帝は「ワインは余っているのに穀物が不足した」状況を問題視して耕地のブドウ偏重を是正する勅令を出した、とされています。伝え方は逸話的ですが、当時ブドウ栽培が政策課題として語られ得たことは示します。
ただし同時に、スエトニウスはこの措置が最後まで厳格に実施されたわけではなかったとも述べています。
この逸話が示しているのは命令がどこまで実効したかとは別に、当時すでにブドウ栽培(=ワイン生産)が穀物生産と競合しうるほど広がり、皇帝が政策として介入を考える程度には大きな存在になっていた、という点です。
結論としては、ローマ時代(少なくとも1〜2世紀)に限れば、ルシヨンもラングドックと同じく「設備・容器・流通」を伴うワイン生産が展開したと言えます。一方で、立ち上がり(前6〜前5世紀ごろ)の説明は、ラングドック側ほど“決定的な事例”が一般概説で前面に出にくく、同じ速度・同じ密度だったとまでは言い切れません。
ルシヨンは、ローマ期に ガリア・ナルボネンシスの範囲に含まれたと説明されます。この点で、ローマ期の制度・交易圏の枠組みはラングドック側と共有されます。
ルシヨン側でも、帝政期の生産拠点が確認されています。たとえばペルピニャン近郊の「プティ・クロ(Petit Clos)遺跡」では、
などがまとめて示され、ワイン生産を行う施設が1〜2世紀に機能していたことが述べられています。
ローマ期の南仏ワイン流通を語るうえで重要なゴロワーズ4型アンフォラについて、ファネット・ローベンハイマーは、その標準化が「ヴァールからルシヨンまで)」という広い範囲で進んだことを明示しています。
また、ゴロワーズ4は輸出向けに普及した主要型で、導入後に最も一般的になったことや、生産工房が多数確認されていることが研究で整理されています。
さらにルシヨン側では、ルシチノ(Ruscino)とカノエス(Canohès)で、同一の刻印が押された“大型の貯蔵甕(大壺)”の破片が報告されています。大型の貯蔵甕は多用途なので直ちに「=ワイン」とは言えませんが、少なくとも大容量の液体や食品を貯蔵できる容器が、この地域でも使われていたことは示します。
結論から言うと、とくにラングドックの平野部では19世紀後半(鉄道の整備期)に「ブドウが他の作物を押しのけて(ほぼ)単作化する」流れが強まり、今日の景観の核が形づくられたと考えてよいです。実際、IGP Pays d’Oc の仕様書でも、「19世紀、鉄道の発達とともに準単一栽培が成立した」という説明が置かれています。
ただし、すべての場所が一様に単作になったわけではなく、丘陵・山地や一部の谷では混作・小規模栽培が残り得ます(この点は地域差として押さえるのが適切です)。
エロー県の村落史研究では、村(例:Usclas-d’Hérault)レベルで、18世紀後半からブドウへの傾斜が始まり、19世紀半ば(1856年)に“単作が成立した”とまで記述されています。
さらに1873年の状況として、ブドウが他の作物に取って代わり、オリーブやアーモンドが減り、飼料生産も乏しくなって域外調達が増えるといった、単作化の含意が具体的に述べられています。
鉄道輸送を扱った地理学研究は、ラングドックの日常消費向けワインの大規模生産が、鉄道の黎明期と同時代に進んだこと、そして1839年の Montpellier–Sète 開通、1860年ごろまでにパリ方面への連絡が整うことを具体的に示しています。
同じ研究の導入部では、鉄道到来と歩調を合わせて Gard, Hérault, Aude, Pyrénées-Orientales の4県合計で1868年にブドウ畑が約38万haに達した、とも述べています。
つまり、「作っても売れない」から「全国に出せる」へ変わったことが、面積拡大と単作化を同時に進める強い条件になりました。
1907年の南仏ワイン危機を扱う大学出版(Presses universitaires de Perpignan)の概説によれば、この地域のブドウ単作は古くからの伝統というより、鉄道が整った1850〜1860年代に本格化した比較的新しい現象です。ところが1870年代初頭のフィロキセラ禍でいったん中断し、1890年代にアメリカ系台木への接ぎ木でブドウ畑が再建されます。
この「再建」の過程で、土地利用はふたたびブドウ中心に組み直され、結果として単作的な構造がいっそう強まり、固定化したと考えられます。
この文脈でいう1907年危機とは、フィロキセラ後に再建・固定化したブドウ単作型の大量生産体制が、供給過剰と価格崩壊によって限界を露呈し、社会運動として爆発した出来事です。
ラングドック平野の村々を対象にした農村研究でも、「ブドウ単作の危機」として、ワインの売れ行き不振、生活水準の低下、若年層の流出、土地の売却、転作の試みなどがまとめて論じられています。
つまりこの段階では、単作化は「起きたかどうか」を議論する対象ではなく、地域社会のあり方を左右する前提条件になっていた、という位置づけになります。